天 球 座 標 系
夕方になっても雪は降ったり止んだりを繰り返していた。春樹は要と共に帰宅中だった。重たい雪が傘に 当たって直ぐに水になる。
要は昼間に会った日高の事について色々と聞いてきた。
「よく知ってるって程じゃないけどさ、あの人も頭いい人だな」
春樹の知る日高は神経質なほど繊細なイメージだ。それは彼の書く緻密なプログラムにも言えていた。
「確かあのM1の3人、日高先輩と赤平先輩、朝霧さん、今、公募でプログラム書いてたんだよ」
「公募?」
「そう、公募。あるソフトウエア作ってる会社がさ、バグ報告とその修正プログラムに懸賞金かけてる らしくて、3人ともそれに躍起になってるって話」
「そんな、簡単に書けるものなの?」
「無理だろ、普通は。セキュリティの脆弱性を狙ってるから、あらゆる手段で穴を見つけなきゃいけない んだろうし、俺には全然わからないよ」
それでも3人はその修正プログラムを作るために日夜取り組んでいる。春樹はその懸賞金プログラムで 3人の仲が微妙に揺れていることも知っていた。
「実はさ…あんまり信じたくないんだけど、赤平先輩が日高先輩の作ったプログラムを壊してるっていう 噂があって」
「どういうこと?」
「日高先輩が見つけた穴の修正プログラムにこっそり侵入して破壊したり盗んだとかしてるって噂。んで、その 所為で二人の仲が険悪になってるとか。4年の先輩が言ってることだからどこまでが本当なのかわからないけど」
けれど、二人の仲が見るからに悪そうなのは春樹でも分かる。過激すぎるほどの嫌味の応酬。自分が優れた プログラマーだという誇示。見下すための雑言。
春樹が小林研に配属されたころから、それらは続いていたのだ。
そして、それに付け足して昼間の日高の発言に春樹は薄気味悪い悪意を感じた。赤平が死ねばいいと思って いる人間の中に日高も入っているのだろう。
「…ホント言うと、直感的に日高先輩が赤平先輩を殺したんじゃないのかって思った。まだ他殺だって決まった わけでもないのに。でも、小林研の人間やそれに近いヤツなんてみんなそう思ったんじゃないのかって思う」
でもまあ、いくら険悪でもあんな頭のいい人が人を殺すなんてしないと思うけどなと、春樹は続けた。日高と 赤平の仲がどれだけ拗れているのか春樹は知らないし、そこにどんな事情があるのかも分からないが、少なく とも、日高という人物はその場で逆上して誰かを殺すような人間には見えない。
「情報が足りなさ過ぎて、僕たちは何にもできないってわけだね」
「何にもできない…やっぱり何かしたいのかな、俺」
「僕にはそう見えるよ」
要はふふっと笑って傘をもたげた。何かするなら僕も付き合うからね、そういう意味だろう。
「まだ、何にもわかんねえよ」
春樹が困った顔で笑った。
「進藤〜!」
春樹が要と家路を歩いていると後ろから見知った声が近づいて来た。振り返れば板橋がへらへら笑いながら こちらに向かっている。
「板橋じゃん」
板橋は追いつくと、いきなり自分のペースで話を始めた。
「ってか、寒いなー今日。だから夕飯一緒に食おうぜ」
「板橋、だからの用法間違ってる」
「え?あ、そう?まあいいじゃん。どうせ暇だろ。鍋しようぜ、鍋」
板橋は傘も差さずに走ってきたらしく、髪の毛がびしょぬれになっている。しかし当の板橋は自分が 濡れていることになんてお構いなく春樹たちを夕食に誘った。寒いのなら傘ぐらいさせよ、春樹の言葉は 板橋には全く届かない。
春樹は要を見た。要は首を振って答える。
「せっかくだけど、今日は遠慮しておくよ」
「なんだ、望月、体調でも悪いのか。寒いときは温かいモン食ったほうがいいんだぞ。だから鍋に来た方が いいぞ」
「うん。体調が悪いわけじゃないよ」
「じゃ、あれか。金欠なんだな?大丈夫。ここに大蔵大臣進藤様がいるから」
「あのな…」
春樹は暴走し始めた板橋を半分呆れながら見ている。ここは本当のことを言って断るしかないだろうと 要は判断した。
「板橋、せっかくなんだけど。今弟が来てるんだ。だから、鍋は…」
ところが、板橋は要の肩をぽんぽんと叩き丁度いいと意味不明なことを言った。
「なんだ、そうか。じゃあ、その弟君も呼べばいい。4人で食えば温かい。うちに白菜と鍋はあるから、進藤 は肉の係な。じゃあ、炬燵付けて待ってるから」
板橋はそれだけ言うと、さっさと自分のアパートへと向かってしまった。
「出た、必殺暴走板橋特急」
春樹は苦笑いを浮かべて板橋が去っていった方――自分のアパートを見た。
「どうせ同じアパートに帰るんだから、一緒に帰るっていう概念はあいつにはないのか?」
「ないんだろうね」
さすがに要も諦めた笑いを浮かべている。
「大丈夫か?」
「実のところ、宇宙と二人っきりで夕食ってちょっと憂鬱だったんだ。助かったのかも」
「そっか」
春樹は要が必死で顔を曇らせないようにしているその姿に心が痛んだ。
約束どおり春樹が肉を持って、要は宇宙を連れて板橋の部屋を訪れた。
「板橋・・・お前、ホントに白菜切って炬燵に入って待ってたのかよ」
板橋の部屋の炬燵の上にはカセットコンロと土鍋がセットしてあり、隣には白菜がこんもりと盛られた 皿が置いてあった。
板橋は炬燵に入ってゲームをしている。春樹達はとりあえず部屋に入ると、食材を冷蔵庫に突っ込んで 炬燵にもぐりこんだ。途中、宇宙は床に散乱しているものにつまずいて転びそうになっていた。板橋の部屋は ゲーム機が散乱しているのだ。
「何してんだ」
「久しぶりに魚のおっさん、育ててる」
見れば、もう10年ちかく前に発売されたソフトを板橋は楽しそうに遊んでいた。このハードは生産中止に なってから7,8年経つが、未だ板橋のお気に入りのハードらしく、板橋は保管用に3台もキープしている。
「こいつさ、ひでえ事言うと怒るんだよ」
そういいながらも、板橋はコントローラに付いたマイクで画面の中の人面魚にえげつない言葉を掛けていた。
宇宙がびっくりした顔でそれを見ている。ゲームにも板橋にも驚いているのだろう。
「で、板橋。今日は何鍋なんだ?」
「さあ。進藤たち適当に買ってきてくれたんじゃないの?」
「はあ?お前、俺に肉買って来いって」
「うん。だから、それ以外は望月の係。俺鍋と白菜の係って言っただろう?」
春樹は呆れながら、炬燵から出た。
「・・・要、買出し行こうぜ」
「何、お前達何にも買ってきてないのか」
「板橋が肉買って来いっていうから、肉しか買って来てないんだよ」
「ったく、機転の利かないヤツだな、お前達は。よし、買って来い。その間に俺はもう一ゲームしてるから。 ・・・お、そこにいるのは、望月ジュニアか。似てるな。さすが兄弟」
突然話を振られて宇宙はぶるっと震えた。だが板橋は相変わらず自分のペースで話を運んでいく。
「よし、弟君。あいつらが買い出しに行ってる間、俺とゲームで勝負しようぜ」
「・・・」
「何がいい?俺は積みゲーは得意だぜ」
そういうと、ゲームソフトの並んだケースを物色し始める。春樹は要とそれを見て諦めて買い物に 出かけることにした。
「じゃあ、板橋ちょっと買ってくるから。宇宙のこと頼むよ」
要が板橋の背中に語りかけると、板橋は宇宙の方を振り返った。
「弟君は、そらっていう名前なのか」
「はい・・・。宇宙って書いてそら、です」
「うん。いい名前だ。そらはいい」
「兄ちゃんが付けてくれたんだそうです」
途端、要の顔が硬直した。小学生の頃確かに要から聞いた話だ。宇宙と星夜。要がつけた双子の弟の名。
今宇宙はそれをどんな気持ちで受け止めているのだろう。宇宙は星夜のことを覚えているだろうか。
「望月はセンスあるな。うん。そらはいいぞ。全てを飲み込んでくれる強さがある」
「僕は・・・そんな強くないです」
「なんだ、知らないのか。名は体を表すと言ってな、人は自然と名前の通りになるんだ。人は名前に 縛られてるともいえるか。うん」
要は板橋の言葉を背中に受けながら、部屋を出た。その後を春樹が追う。春樹には要の心も宇宙の心も 見えない。介入できないからこそもどかしくて辛くなる。
外は雪が強く降り始めていた。
春樹達が買出しから帰ってくると、留守番組がテレビの前で白熱していた。
春樹も要も宇宙が笑っているところを始めて見た。
「うん、宇宙。君は筋がいい。このゲームはなかなか素人では攻略が難しいんだよ」
「あー、でも、もうだめー。目瞑ってもブロックが浮かんでくる」
子どものあどけなさを残した笑いだ。頑丈に武装した鎧を解くのは案外板橋みたいなヤツなのかも しれないと、春樹は思った。
「板橋、買ってきたぜ」
「お帰り。じゃあ、始めてくれ」
「何、下ごしらえも俺たちなわけ」
「馬鹿、お前達はこの白菜と鍋が眼に入らないのか!」
何が偉いのか分からないが、板橋はえっへんとわざわざ口で言って炬燵の上に乗った鍋を指差す。
「はいはい、わかった、わかった」
結局その後の準備は全て春樹と要の手に委ねられた。
鍋は板橋が密かに気に入っているらしい味噌ちゃんぽんになった。密かというのは、板橋には「大好物」 という味覚がないらしく、概ね食べ物は「旨い」ものらしいのだ。その中でも味噌というのは、どこか 板橋に訴えかける味らしく、気が付くと板橋はよく味噌あじの物を食べている。そのことに気づいたのは 要で、本人に本当の事を聞いたことがないから密かに気に入っているのだと、春樹は思っている。
板橋は案の定嬉しそうに鍋を平らげた。
「あー、食った食った」
「板橋、お前、ホントに食いすぎ」
「白菜あんなに沢山あったのにね。よく食べれたなあ」
「俺の腹にかかれば、アレくらいどうってことない」
板橋は座椅子にもたれながらテレビのチャンネルを替えた。どこのチャンネルもバライティやドラマが 終わり夜のニュースが始まる時間だ。
一番初めにニュース番組になったところで板橋は手を止めた。その顔が真剣に画面を見詰めている。
テロップの文字を読んで春樹も要も息を呑んだ。
ニュースキャスターが険しい顔をしてそのニュースを繰り返した。
『――お伝えします。今日午後8時頃、長野県警は記者会見を開き、S大で毒物を使った殺人事件が起きた ことを発表しました。この事件で殺されたのはS大の大学院1年の赤平昴さん23歳です。使用された毒物を 県警は亜ヒ酸と伝えております』
『亜ヒ酸といいますと・・・』
『いわゆる、ヒ素ですね。番組をご覧になられている皆様にも記憶に新しいと思いますが和歌山で起きた 事件と同じ毒物です』
『警察は当初、自殺、他殺両面からの捜査を行っていたようですが・・・?』
『はい。それについては、遺書などは残されていないことや殺害現場の状況、殺害に使われたヒ素は コーヒーカップ、とコーヒーに混入する際に使ったと見られるスプーンから検出されているのですが、 そのスプーンの方に赤平さんの指紋がないことが大きな決め手になっているようです。県警ではヒ素の 入手先を調べているようですが、出所等の詳しい状況はまだ発表されておりません』
キャスターは最後に渋い顔で一刻も犯人が早く捕まることを祈ります、と締めくくった。
「おい、小林研。殺人事件になっちまったぞ!」
「・・・」
春樹はそのニュースを呆然と見詰めていた。
(赤平先輩は、誰かに殺された・・・)
隣から心配そうな顔で要に見られた。そわそわと落ち着かない気持ちをなんとか静めようと、手にした お茶を一気に飲み干す。
「・・・小林先生は、朝来たら研究室には鍵が掛かっていたって言ったんだ」
「それって」
板橋もおどけた調子を押さえた口調に変わっていた。
「研究所の鍵は基本的に研究室に所属してる学生しか持ってない、それってどこの研究室も同じだろ?」
「そうだな・・・」
それはすなわち、犯人は鍵を持った人物、小林研の人間であるということだ。春樹は頭を抱え込んだ。
研究室の人間の顔が次々と浮かんでくるが、その中に赤平を殺した人間がいるなどと考えたくはなかった。
「でもさ、誰かの鍵が盗まれてってことも考えられるだろ」
フォローした板橋に春樹は首を振った。
「昨日、俺が事情聞かれてたとき、既に研究室の他の人間も事情聴取は終わっていたらしいんだけど 事情聴取した人は皆鍵を自分で持ってたらしいんだ。小林研はM2に2人いるけど、この2人は修論で 忙しすぎてここ何日か大学で見かけてないらしいし、4年の先輩も3人いるけど、卒論の追い込みで 殆ど家にいる。だから、実際に事情を聞けたのは俺たち3年の3人と4年の船田先輩、M1の日高先輩と 朝霧さんだけなんだけど」
「じゃあ、まだ完全に内部犯の仕業ってわけでもないんだな」
「まあね。その人たちの鍵が盗まれてないとは100%言い切れないし・・・可能性は低いんだろうけどさ」
春樹は諦めている。そしてどこかで確信もしていた。赤平を殺したのは同じ研究室にいる人間だろうと。
直感に近いものだったが、不穏な空気が流れていた小林研では、どうしても内部犯だと思わないで いられなくなるのだ。
「こりゃ、明日からS大は報道陣で大混雑だな」
「インタビューとかされるかもね、板橋なら」
要が本気か冗談かそんなことを言うと、板橋は真剣に悩んだ。
「マジか。俺なんて答えればいいんだ?進藤は無実ですとか」
「余計怪しまれることだけは、頼むから止めてくれ」
板橋の発言は軽く流した春樹だが、この衝撃は心をぽっかりと空洞にして行った。隣で宇宙が事情を 掴めないまま3人の大学生の顔を見ている。春樹は乗り遅れている宇宙に教えてやった。
「このニュースの、殺された人って、うちの研究室の人なんだ」
「知り合い?」
「うん。よく知ってる人」
さすがに宇宙も驚いて、もう既に別のニュースになってしまったのに、テレビの画面を凝視していた。
「この事件、一体どうなるんだろうな・・・」
自分達が心配しても、何も出来ないのだとわかっているが、春樹は心の中で自分の真っ直ぐにつきぬけた 想いがぐずぐずとうずいている。赤平の死を自分の納得いく形で落ち着けたい。この心の空洞をどうにかして 埋めたい。春樹は横目で要を見る。要の顔もやっぱり固かった。
その横顔をみて、この後どうしようもなく辛い現実が待っていようとも自分で動いてみよう、ちゃんと 自分に決着をつけよう、春樹はそう心の中で誓ったのだった。
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