天 球 座 標 系
目覚ましよりも早く目が覚めることが3日も続くと、春樹も薄っすらとストレスを感じ始める。眠れない
というよりも、浅い眠りで直ぐに覚醒してしまうのだ。
眠っているはずなのに、疲れは溜まる一方で、寝起きの不機嫌な気分を一層悪くした。
携帯電話を見ると、メールが1件届いていた。小林助教授から直接の送信だった。9時半には研究室
に集まるようにとのことだった。勿論、緊急招集の理由は赤平の死についてだろう。小林自身、焦って
いるに違いない。同研究室から被害者と加害者が出てしまうなど、指導教官としての立場を考えると
けして他人事では済ませられない。
春樹は時計を確認すると、頭まで布団を被る。寒さで冷えた鼻が布団の中の温かさにむずむずとした。
起きたくない。家の外にも出たくない。そう思わせるほど身体が重い。それでも、赤平の死に対する真実を
自分で確かめたいと思っているのも事実で、春樹はたっぷり10秒数えてから布団から這い出た。
春樹は要に緊急招集されたことだけメールして、身支度を始める。寝起きの顔を冷たい水で洗い、急激
に覚醒させると、幾分か思考が働き出す。
深追いするなという要の顔が浮かんだが、それも隅に追いやって春樹は手際よく準備し、家を出た。
曲がった事が嫌いというより、自分の中に通った一本の筋をただ通したいだけなのだと春樹は思う。その
真っ直ぐに伸びた筋を「正義」とも「偽善」ともいうのだと春樹自身感じている。真っ直ぐだけではどうにも
ならないことも知っているつもりだし、世間を渡り歩けないことも予想に難くない。
それでも、自分の指導院生として関わった人間がある日突然殺されてしまったというのなら、春樹はその
意味を見極めたいと願うのだ。
小林研の前に着くと、小林研は立ち入り禁止になっていた。うろうろしていると、隣の部屋から4年の嶋田が
顔を出して春樹を呼び寄せた。
「あと、進藤だけだよ」
「すみません、ちょっと遅れたかな」
春樹は臨時に小林研として宛がわれた部屋で隅の方に椅子を持ってきて座った。見れば学部生だけでなく
院生まで全員揃っている。純子は相変わらず腫れぼったい顔をしていた。
小林助教授が全員集まったことを確認して重々しい口調で話し始める。
「おはよう。皆さんももう既にニュースで確認していると思いますが、赤平君の事件が公表されました。
とても悲しいことです。赤平君が亡くなったことに加えて、それが殺人事件であるなんて。わたしは教員歴
はそんなに長いほうではありませんが、学生時代から遡っても、学び舎でこんなことが起きるなんて初めて
です。・・・皆さん、赤平君の亡くなった日に警察の方から確認されているかと思いますが、赤平君を発見した
のは、私です。私は朝、研究室の鍵を開けて中に入りました。そして赤平君が亡くなっているのを発見した
わけですが、これが意味することは、もう皆さんは気がついてますね。赤平君を殺害したのは、赤平君が自分で
中から鍵を掛けるなんてことをしない限り、この部屋の鍵をなんらかの理由で持っていた人となります。それが
この中にいるとは信じたくありませんが、少なくともあなた達は疑われる理由を持っています。この中の誰か
の鍵が使われたというだけで、犯人がこの中にはいないのかもしれません。どちらにしろ、一刻も早くこの
事件が解決することを私や彼の親御さん、そして皆さんも思っているはずです。・・・どうか、この中に
心当たりのある方がいるのなら、速やかに申し出てほしい。
犯した過ちは大きいですが、いつまでも1人でその闇を抱えていないで欲しい。・・・これから警察の方が
あなた達の事情を聞きに来ることがあるかもしれませんが、どうか、心を病まないで、がんばって欲しいと
思います」
小林助教授は疲れた顔で1人1人を見渡した。そのうち、小林と目の合ったM2の1人が口を出した。
「あの、俺たち、俺たちっていうか俺とコイツ、赤平が殺されたっていう日、2人でずっと自宅に篭って修論
書いてたんですけど、8時くらいだったかな、数分の間、研究室のサーバーにアクセスできなくなったんですよ。
暫く経って復旧してたので、確認したんですけどね、どうも誰かが不正アクセスしてたみたいなんですよ。
しかも研究室内部からの不正アクセスで、ダウンしてた感じがして。多分研究室にいた・・・赤平が
サーバーに無理矢理もぐりこんで何かしてたと・・・」
「俺たちのバックアップもサーバーに取ってるから、このサーバーが倒れるとかなり辛いんですよね。
復旧後すぐに確認して、俺達のデータは特に何もされてないことは分かってほっとしたんだけど、不正
アクセスは許されるものじゃないんで、研究室にいた犯人、そのときは赤平って分からなかったけど、
そいつは一体何をしたんだって、今度ゼミがあったらこのことは問題にした方がいいって思ってたんです。
・・・まさかその後で赤平がそんなことになってるなんて思ってもみなかったから・・・」
院生2人の話を信じるのなら、8時頃には赤平は生きていてサーバーに無理矢理アクセスしてたということ
になる。
「先輩達は赤平さんが亡くなったの、いつ知ったんですか?」
4年の1人が口を挟んだ。
「その日の午後。小林先生から電話貰ったから。あ、俺達のアリバイとやらを疑ってるのか?そんな
もの当てになるのかわかんないけど、俺達その日の夜からずっと俺の部屋で修論書いてたから。何度も
研究所のサーバーに自分の部屋からアクセスしてるから、一応それがアリバイになるって言えばそうなる
のか?・・・っていうか、俺やコイツが赤平なんて殺すわけないだろ?何のメリットもない。こんだけしんどい
思いして修論書いてるのに、人生棒に振りたくないね」
「それを言うなら、俺達だって同じですよ」
そう切り替えしたのは4年生だった。彼らもまた卒論で自宅に篭りっきりのメンバーで、その日も部屋に
閉じこもり永遠とパソコンの前に向かっていたのだという。
そうして、お互いがそれとなく自分のアリバイを主張し始めると、疑惑はひっそりと日高や純子に
向かっていった。
純子にも、犬猿の仲といわれている日高にもこれといった大きな決め手はないが、アリバイもない。
普段から自分がどこにいたかと証明できる人間などは滅多にいない。特に1人暮らしの学生は、1人で
いる事の方が多いのだから、必然と自分の疑惑を晴らすことなど難しくなる。
そういう意味では、もう1人、4年の船田も自分の潔白をここで証明できる決め手を持ち合わせていなかった。
船田は赤平の死が発覚した日よりも青白い顔をして、部屋の隅で小さくなっていた。
ただでさえ春樹よりも小柄で細い身体が益々小さくなって、溶けて消えてしまいそうに見える。
不穏な空気が流れ始めると、小林助教授が無理矢理話しを止めて、話の主導権を引き戻した。
「まあまあ、ここで犯人を捜すことはやめよう。もしかしたらこの中の人じゃないかもしれないし。そう
願いたいだけかもしれないが。とにかく、もしこの中に犯人がいるとするなら、速やかに警察に申し
出て欲しい。私はそれを言いたかったんだ」
そういわれて、一同はそれ以上何もいえなくなった。純子は俯き、日高は相変わらず何を考えているのか
分からない表情で小林を見ている。
「それから、研究室サーバーの中身を警察が見に来るかもしれない。私としては早い解決を望みますから
提出して欲しいと言われたらそうしたいと思います。ただ見られたくないものもあるでしょうから、もし
そういうファイルがあるようなら、今日中に処理してください。緊急に一つサーバーを立てましたから、
そっちに引っ越すように。本日から、ここの部屋が仮の研究室になります。来週からは通常通りゼミも
行います。私は教務委員の方に呼ばれてますので、ちょっと抜けますがみなさんはここで作業していって
ください」
小林はそれだけ言うと、暗い表情で部屋を出て行った。途端ざわめきが起こる。院2生や4年生の嘆きが
その殆どだ。
春樹は周りを見渡す。研究室のメンバーは全部で11人。小林の鍵の話を全面的に信じるのなら、その
うち、身の潔白を証明できるものが何もないのが純子、日高、船田の3人ということになる。
日高あたりは怪しいと春樹ですら思うが、日高に限ってそんなことをするわけが無いと逆にブレーキ
もかかった。
船田は、研究室で赤平に顎でこき使われている光景を春樹は何度も見ている。純子に至っては、それこそ
表向きはほれ込んでいた男が亡くなって憔悴しきっているが、赤平の性格を思えば、裏でどのような関係
であったかなど、分かったものではないというのが、研究所のメンバーの見解だろう。
犯人が分かれば動機などというものは後からいくらでもくっつけられる。誰にでも。春樹はそう思わず
にはいられなかった。
(誰がやってもおかしくないように見えるけど、でも誰も普通はやらない)
考えていると段々と苦しくなってきて、春樹は部屋の外に出た。
廊下を歩いていて休憩所までくると、休憩用に置かれたベンチに男が1人座ってタバコを吹かしていた。
春樹は思わず声が漏れた。
「あっ・・・」
「何?」
春樹を振り返ったのは暁裕輝だった。
目が合ったので、春樹は頭を下げる。相手は暫く考えた後、
「ああ、赤平のトコの」
と涼しい顔で笑った。春樹ははっとする。純子、日高、船田に続いてもう一人、この人にも潔白を証明
できる要素がない。
死亡推定時間というのはある程度絞られるらしいが、亜ヒ酸という量によっては即効性の無い毒物が
いつ与えられたかということになるとかなり時間にぶれが出る。あの日、赤平以外で最後に研究室を出た
のは小林助教授で、6時ごろだったという。部屋には赤平を1人置いて小林は帰宅した。
ひとまずは犯行は6時以降だと考えられる。そして死亡推定時刻は日を越えて午前3時の前後1時間だろう
と、小林は教えてくれた。
更にM2の2人の証言を有効とするならば、午後8時に赤平は生きていて、研究室のサーバーに不正アクセス
を行っている。
亜ヒ酸中毒で死亡する場合には30分から数時間後と大きく幅があるため、犯行時刻も8時以降から日付を
越えた午前3時と、かなり曖昧になってしまうのだ。
研究室の鍵を持っているというだけで、暁もいきなり容疑者の最有力候補になった。
春樹が黙っていると暁は皮肉な笑いをあげた。
「何、君も俺が赤平殺したんじゃないかって思ってるの?」
「え?」
「そんなに赤平殺したヤツが憎い?」
「俺は別に・・・」
怪しさからいけば、暁ほど怪しい人物はいないのかもしれない。研究室のメンバーでもないのに、赤平の鍵を
持っていた人物。春樹は立ったまま、暁の話を聞いた。
「まあ、疑われても仕方ないとは思う。・・・でもさ、例えば、赤平が自分で鍵を掛けてしまえば、鍵を
持っていたかどうかなんて全く無意味だと思わないか?」
赤平が死ぬ前に研究室でヒ素を飲まされて挙句の果てに携帯電話を折り、研究室のドアに鍵を掛けた。その
行動に納得できる意味があるのだろうか。
「死ぬ直前の行動なんて、誰にも予測不可能でしょ」
暁は春樹の心を読み取ったのか、皮肉そうに笑った。そして、ベンチの隣を指差すと、ドウゾと声を
掛ける。何のつもりだろう。春樹に自分が犯人でないことを語りたいのだろうか。春樹はここで暁の長話を
するつもりはなかったが、そういわれて断れるはずもなく渋々隣に座る。
隣に座ると、暁からは甘い香水とタバコの匂いがした。
「誤解しないでよ。こう見えても俺だって赤平が死んでショック受けてるんだから」
暁は手にしていたタバコを指弾いて灰皿に落とした。細く白い指先に春樹は一瞬男の手であることを忘れた。
暁は全体的に線が細い。春樹よりも身長は高いだろうが細いというだけで小柄に見える。長く伸びた手足が
綺麗にバランスを取っていて、オタクが多いといわれる情報科の中では容姿だけでもかなり目立つ。
加えて白い肌に中性的な顔。そして赤平にも引けを取らないほどの強い性格で、隣の石川研では浮いている
らしい。春樹の同級生の話だ。
「・・・暁さんは赤平先輩と、どういう関係なんですか?」
それは春樹が会話のつなぎに何気なくこぼした一言だった。暁は眉をぴくりと動かすと、
「トモダチ」
と言った。
「・・・まあ、それはそうですよね。研究所に遊びに来るくらいだから。ただ、赤平先輩と全然接点がない
ように見えたんで・・・」
「そう?赤平とはトモダチだよ。・・・色んな面でね」
妖しげに笑った顔に春樹は身体が固まる。色んな面、と春樹がオウム返しに呟けば、暁はなおも続けた。
「そういう意味でトモダチって言った方がわかるのかな、この場合は」
「それって・・・」
春樹は深読みすることに躊躇う。見詰め返すと、暁はたっぷり含みを込めて頷いた。
「普通、そういうのってセフレっていうかもな」
暁から思いもよらない台詞がでてきて、春樹の声は大きくなった。
「お、俺のことからかってるんですか?!」
顔が熱くなる。この男が言っているのは、恋人でもないのに赤平と肉体関係を持っているということだ。
しかもただの遊びとして。
男を好きになること自体、春樹の中では許容を遥かに越えた出来事だった。それでも今は要という心を
許し合いだしている大切な人間がいる。恋人と呼ぶには生ぬるすぎる関係だが、春樹は要と交わすキス
だけでも世間からは十分後ろめたいと思う。
それがこの男は、恋人でもないのに男同士で関係を持っていると言うのだ。にわかには信じ難いことだ。
「・・・まあ、男同士のセフレなんてそうそうお目にかかれるものじゃないかもな」
赤平は純子という彼女がいたはずだ。春樹は大切にする人間がいるのにトモダチ感覚で恋人以外と身体を
重ねられる気持ちが分からない。自分に経験がないからなのかもしれないが、想像しただけで気持ち悪く
なった。
「俺はただのセフレだし、恋人でもなんでもないけど、こうやって赤平が死んだって聞かされると、俺だって
やっぱり胸がぽっかり開いた気分になるんだぜ?」
暁は自嘲しながら言ったが、その本当の心は春樹には見えない。もう1本タバコをくわえてそれに火を
つける。吐き出した煙と共に多くの言葉を封印してしまった。
暁はベンチの背もたれに身体を預けると、上を向いた。
「俺が言うのも変だけど、あいつは、誰に殺されてもおかしくないかもね」
この台詞は、前にもどこかで聞いた。そう感じて春樹は日高が言っていたことを思い出す。
「誰にでも?」
「そう。誰にでも。それくらい恨んでるヤツ多いと思う。ほら、お前のトコの日高なんてその筆頭だろ?」
「やっぱり日高先輩は赤平先輩を恨んでるんですか?」
「恨んでるんじゃないの?恋人取られたっていう噂があったくらいだし」
「恋人って!?朝霧さんのことですか?!」
「純子さんじゃないよ。日高の恋人を寝取ってポイ捨てしたっていう噂。それ以上は俺もよくしらないよ」
また一つ、春樹の知らない赤平の姿を見る。憧れるような清廉潔白な人間ではなかったことは自分でも
感じていたのに、悪い噂を聞くたびに春樹は心が痛んだ。
暁と話していると、研究室の方から純子が歩いてきた。俯いたまま悲壮感を漂わせて、見るもの全てを
不幸にしそうなオーラを放ちながらのそのそと歩いている。
純子は春樹に気づくと、覇気の無い声をかけた。
「サーバーの整理、終わったの?」
「・・・すみません、まだです」
春樹が慌てて腰を上げると、純子は手を振って制した。
「まだ、みんな当分時間かかるから、焦らなくても大丈夫よ」
純子は上の空のようにふわふわとしゃべる。実際地に足が着いている感覚がないのかもしれない。最愛の
恋人を何者かに殺されてしまったのだ。
純子は赤平と暁の関係を知っているのだろうか。講義室で会った純子の友人が「女たらし」と嘆いていた
のを春樹は思い出す。赤平の性癖を全て理解して付き合っているようには思えない。いくら目の前に
立つ女性が聡明だと形容される人物だとしても。
「私、一度家に帰って資料取って来るから」
「あ、はい」
重い足取りのまま純子は春樹から離れた。その姿を見送っていた暁が唐突に言う。
「俺は犯人じゃないよ」
「は?」
「俺、どうせ殺すなら、あっち殺すと思うし」
暁は通り過ぎていった純子を顎で指しながら小声で言った。
「トモダチは恋人にはなれないからね」
そう言ってから、暁は首を振った。
「俺は別に恋人になりたいわけじゃないよ。赤平のことが好きだったわけでもないし。ただ、長く一緒に
いて、身体が繋がると、情ってものは沸き上がって来るんだ。そいつがさ、本心は隠して俺と繋がって
たりすると、俺としては隠してる気持ちを暴いてやりたくなる。
・・・でもそうやって垣間見た心の中は意外と純朴に彼女を愛してるってことだったりするとさ、もうやり
切れなくなるなるじゃない・・・俺はどう足掻いても1番になれない」
1番になりたかった、暁は否定するがその意味はやはり「愛されたかった」ということなのではないかと
春樹は思った。愛のない行為に満たされなくなったのかもしれない。
「・・・なんで俺にそんなことを話してくれたんですか?」
「お前が、赤平の死を悔やんでくれたから。・・・でもなんでかな。セフレの話なんて今まで誰にもしたこと
なかったのにな。もちろん赤平に口止めされてたっていうのもあるけど。・・・誰かに聞いて欲しかったのかもな」
「自分達の関係をですか?」
「っていうよりも、俺が赤平の1番になれない悔しさをかな」
そう笑っていう暁は、何時も通りの不遜な態度が見え隠れしているようで、どこまでが本気なのか、春樹
には分からなかった。
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