なかったことにしてください  memo  work  clap
天 体 観 測 



 7月に入った。八ヶ岳に行ってから半月以上経っていた。鬱陶しいほどに蝉が鳴き、照り返す
アスファルトからは、むっとした熱気発せられ、歩くたび、体力が奪われていく。
 春樹は炎天下の中、サークル棟に1人で向かっていた。あれから、要とは何もない。
何もないとは、関係がなくなったことのようにも思える。大学で会えばしゃべるし、
サークルにも一緒に行った。ただ、要はあれ以来一度も春樹の家には来なくなった。そうなる
のは自然なことなのに、生活は不自然に捻じ曲げられたようだった。
 要のいない生活。それは春樹を鬱々とさせた。要は何も求めないと言ったが、「隣にいる」
ということが、これほどまでプレッシャーが掛かり、この関係の不毛さを顕著に表している
ものだと、春樹は痛いほど感じていた。
 先に逃げたのは要の方だった。真っ直ぐに見つめた視線を逸らされた。傷ついているのは
自分だとその目が語ったように思った。
 そこにどんな意図があれ、春樹はそれ以来無意味に話しかけるのを辞めた。春樹と要の間には
ただ、乾いた笑いだけが残った。
「おはようございます」
サークル室のドアを開けると、冷風がさあっと身体を通り抜けていった。
「よう」
既にいる住人は外の暑さを忘れるほど涼しい顔で雑誌を読んでいる。春樹は外に冷気が漏れない
ように素早く中に入ってドアを閉めた。
「すみません、遅くなって」
「ああ、別にいいよ。俺もついさっき来たとこだし・・・んなとこ突っ立ってないで、座りな」
「ええ、はい」
春樹は対面したパイプ椅子に座った。サークル室は8畳ほどの広さで、真ん中に長机が横に
3つ並べてある。机の上は雑然としていた。誰が持ってきたのか分からない様々な雑誌(漫画から
コンピュータ系の雑誌まで)がいくつも積み重なっている。その間をかき分けて春樹は先ほど
自動販売機で買ってきたペットボトルを差し出した。
「隼人先輩、どーぞ」
「お、サンキュ」
「いえいえ、わざわざノートのコピー貸して頂けるんですから、これくらい」
春樹は自分用に買ったお茶を喉を鳴らしながら勢いよく飲む。暑さで粘ついた喉がひんやりと冷えた。
「ほら、これ、コピーな」
隼人は読んでいた雑誌を閉じると、鞄の中から束になったコピー紙を差し出した。
 隼人が差し出したコピーは日に焼けて少しだけ黄ばんでいた。春樹はそれを受け取ると、ぺらぺらと中を
確認した。几帳面に埋められたそれは、隼人の字では無かった。
「あの教授は、毎年同じテストだからなー。それ持ち込めば優が付くぜ?」
春樹は隼人にノートを借りに来たのだ。7月に入れば、そろそろ前期の試験が始まる。工学部専門の
授業はそこそこまじめに受けている春樹だが、一般教養と呼ばれる共通科目については、さぼり
気味かもしくは出席しても殆ど聞いてないのが常だった。
 先週のサークルの時に、春樹がそのことを隼人に話すと、隼人は「自分が受けたヤツで使える
ノートがあったら貸すぜ?」と言ってくれたのだ。春樹は自分が受けている共通科目を伝えると
隼人は「1つだけだけど、貸してやれるのがある気がする」と言って、春樹をサークル棟に呼び出し、
そうして今に至る。
「そいつさー、俺のノートじゃないんだけど、まあ、頭のいいヤツからコピーがどんどん広がって、
今じゃ誰でも持ってるくらい有名になっちまったヤツ。あの教授のあの授業が無くならない限り、
永遠に増殖してくんじゃねえの?」
隼人は春樹からもらったペットボトルに口を付けた。「あー、うめっ」と独り言のように呟く。
「なんだ、隼人先輩がまじめにコツコツ書いたノートじゃないんですね」
「俺が、そんな性格に見えるか?」
「・・・いやあ、まあ、そうですね」
春樹は苦笑いを浮かべた。確かに隼人の性格から言ってそんな風にまじめに講義を受けるようには
思えなかった。
 隼人はふと春樹を正面から見据えて、問うた。
「なあ、進藤、最近疲れてるのか?」
「はい?」
「いや・・・なんか、そう見えた」
「まあ、テスト勉強とか、大変ですから・・・」
春樹は一瞬心を見透かされた気がして心がずきっとなる。自分でも疲れた顔をしているとは
思っていた。気疲れという言葉が正しいのか分からないが、要の事を思うとぴりぴりと心が張りつめ、
それが続くと、どっと疲れが出た。要と必要以上に関わらない。関わりたくない。関わらない方がいい。
思いが交錯して、要との距離の取り方が春樹には分からなくなっていた。
 会えば挨拶を交わし、サークルにも一緒に出たが、隣にいるのに心は断絶したままだった。
あんな事を言うのが悪いと、要を詰っている時もあれば、要の気持ちに答えられない自分に
辛くなることもある。出口のないトンネルを彷徨っている気分だった。
「まあ、お前も望月も、まんまり思い詰めるなよ」
「な、なんで、そこに要が出てくるんですか!」
「・・・ん、なんとなく、な」
どこか見透かした口調に、春樹は思わず呟いてしまう。
「友だちって・・・なんなんでしょうね」
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
隼人の問いに春樹は心の中で、その逆ですとため息をつく。
「若人よ、焦んなって」
「なんですか、それは」
「人生なんて、どれだけ多く物事を経験したかで価値が決まるんだよ」
昨日の喧嘩は未来の肥し、などと嘯きながら隼人は雑誌を丸めた。
 じゃあな、と言って立ち上がろうとしたとき、それは突然に起きた。
 ばんっという大きな音を立てて扉が開いたのだ。春樹も隼人も驚いて扉の方を見た。
乱暴に開けられた扉の向こうには一真が立っている。瞬間、誰だか分からないほど、いつもの
一真の柔らかさが欠け、鬼のような形相で、一真は部屋の中へ入ってきた。
「よお、一真、そんな怖い顔してどーした?」
挨拶した隼人を睨みつけ、一真はいきなり隼人の胸ぐらを掴んだ。
「お前はっ・・・お前は全部知ってたんだな!」
「・・・なんだよ、いきなり」
当然、隼人は驚いて掴まれた胸ぐらと、頭半分小さい一真を交互に見下ろす。
「そうやって、雛姫と笑ってたのかよ!」
「・・・って、離せよ、全然話が見えない」
胸ぐらをつかまれた隼人はその手を振りほどこうとするが、一真は強い力でTシャツを掴みあげた。
 春樹は唖然としてその光景を見ていた。
起きている現象の意味が分からない。一真が怒っているということを認識するのにも、時間が
掛かってしまう。あの「温厚で頼れる先輩」である一真がどうしてこんなにも怒っているのか。
何故、隼人相手に?その理由が見当たらないが、雛姫という単語が聞こえて、三角関係の
縺れなのかと想像した。
「お前は・・・そんなに、人を貶めるのが楽しいのかっ!」
そう言うと、一真は右手の拳で、躊躇い無く隼人の頬を殴った。かなり強い力で殴られたのか、
隼人はよろめいて近くにあったパイプ椅子にぶつかり、ガタンと音を立てて椅子が倒れた。
「痛ってぇ・・・」
 訳も分からずいきなり殴られた隼人は納得がいくはずもなく、殴られた頬に手を当てながら
一真を睨み返した。
 隼人と一真はお互い見合ったまま動かなくなった。一真は怒りを収める様子もなく隼人に
怒鳴りつけた。
「全部、嘘だったのかよ!!」
「嘘って、どういうことだよ!」
「善人の振りして、裏で笑ってるのか、それがお前のすることなのか?」
「はあ?」
「それが、友達だと思ってた隼人の本性なのかよ!!」
「本性って、何の話だよ、いいからちゃんと、興奮せずに話せよ」
「・・・いい人振るのも、大概にしとけよ!!俺は全部知ってるんだからな」
「知ってるって何を知ってるんだよ?」
「ホントは最初から、知ってたんだろ?!なあ、言えよ、お前の隠してること」
「お、俺が隠してること・・・?」
僅か隼人は動揺した様子で、隼人を見つめる。一真は舌打ちした。
「やっぱり、隠してたのか・・・」
「待てよ、知るも何も、俺は知られて困ることなんて、一つもねえよ!!」
「俺は・・・こんな嘘つきとずっと一緒にいたのかよ・・・」
「一真っ!!」
隼人は反射的に大声で叫んだ。
「俺は・・・俺は、お前も雛姫もみんな許さないからな!!」
 肩で息をしながら一真は真っ直ぐに隼人を見つめる。隼人は打たれた頬を撫ぜながら、何故か
悲しそうな顔をしているように見えた。少なくとも春樹の目にはそう映る。理不尽にぶつけられた
痛みの行き場を探しているようだった。
 どちらが悪いのか、何があったのか分からない春樹はただおろおろするばかりだ。止めに入る
ことすら出来ずにいる。
「一真!いい加減にしろよ、お前、言ってる意味が全然わかんねーよ」
「この場になって、まだ、白を切るつもりか?!」
隼人はため息をついて、睨んでいた視線を緩めた。
「お前ねぇ、何があったのか知らないけど、訳も分からずいきなり殴ったり、あんまり
子どもじみたことするな、いい加減いい大人なんだから。俺が一体何したって言うんだ?
ちゃんと話してくれなきゃ、俺だって何を弁解して何を話せばいいのかわからんだろう?」
上ずった声から自分の興奮を隼人は感じていたが、それでも冷静になろうと、二つ大きな呼吸を
繰り返して、一真に語りかける。
 緊迫した空気は破裂する前に、収縮していった。
 窘められて、一真はかみ締めていた下唇の力を抜いた。自然と肩に入った力も抜けていく。
事態はひとまず和らいだようだった。
 一真はぼそぼそとした聞き取りにくい声でしゃべる。
「・・・雛姫のこと」
「雛姫ちゃんがどうかしたのかよ?」
「お前、雛姫の事・・・」
そう言いかけた時、春樹の携帯が鳴った。
(・・・!うわ、やばい)
春樹は慌ててジーパンのポケットから携帯を取り出して、電源を消したが、一真は驚いて音の
する方を振り返った。そして、そこで漸く春樹の存在に気づいたのだ。
 バツの悪い顔をして一真は口をつぐんだ。頬が紅潮している。
自分の行動を後輩に見られたことで正気に戻ったのか、決まり悪そうに汗で張り付いた前髪を
掻き分けている。
「あ・・・の・・・すみません・・・」
この場合謝るのが適切なのか迷うところだったが、春樹が真っ先に出た言葉はこれだった。
「・・・進藤、いつからいたんだ・・・」
「こいつなら、お前が飛び込んでくる前からずっとその椅子に座ってたぜ?」
隼人が呆れて言った。
「そう、か」
「あの、俺、もう用事済んだので、外出ますから」
焦って立ち上がろうとした春樹を一真は手で制した。
「いや、もういいよ。驚かせて悪かったな。・・・隼人もごめん」
一気に声のトーンを下げて、一真は泣きそうな顔で2人に声を掛けると、そのまま外に飛び出して
いった。開け放たれたままの扉から、初夏とは思えないほどの熱気が入ってくる。取り残された
世界で、蝉の声だけが間抜けに鳴り響いていた。
 隼人は開け放たれた扉を閉めに動く。沈黙は苦手だと言わんばかりに春樹に背を向けたまま、
隼人はしゃべった。
「・・・アイツ、一体どうしたんだろうな」
振り返った隼人は何時もみたいにへらへらとした笑いを浮かべていた。殴られた頬は赤く腫れて
いた。春樹は痛そうなその顔から目を逸らしたくなる。隼人に対して掛ける言葉を探した。
「隼人先輩、口、血出てますよ・・・」
「・・・って、マジかよ。あいつ、ホント馬鹿力だよな。説明もなくこんなに殴るか、普通・・・」
それだけの恨み、ということなのだろうか。春樹は隼人の殴られた頬を見ながらそんなことを
思った。2人の関係をよくは知らないが、サークル内で一番親しそうに見える隼人と一真の
間にも、2人にしか分からない深い確執があるのかもしれない。
 他人の気持ちなんて、傍から見てるだけでは何にも分からないのだと、春樹は改めて思う。
心に膿を抱えている一真も、傷つけられて強がることしかできない隼人も、他人には言えない
思いを胸に秘めているのだと春樹は感じる。人は皆、見えてる部分が全てではないのだ。
 それを考えて、春樹はふと要のことを思い出してしまう。要もまた、人知れず心の闇を抱えた
人間だった。
 多分春樹には分からないほどの辛い記憶が彼を幾度も悩ませたはずだ。その要が自分を求めて
いることに、春樹は戸惑いを隠せない。友人として手を差し伸べることは簡単だ。ただ隣で、
笑っているだけならいくらでもできる。ただ、それは要が求めているものではなかった。
どうすることも出来ないと思うが、同時に傷ついていく要を見るのは辛かった。
(心が繋がり合うことは何て奇跡的で、難しいことなんだろう・・・)
春樹が虚しさに暮れていると、隼人が空元気な声を発した。
「進藤、昼飯食った?」
「え?まだですけど」
「よっしゃ、おごってやるから、行こうぜ」
「悪いですよ、おごってもらうなんて」
「いいの、いいの。この顔で1人で飯なんて食ってたら惨め過ぎる」
「じゃあ、おごりじゃなくていいですから、付き合いますよ?」
春樹がそう言うと、隼人は鼻をくしゃっと萎めながら、
「・・・今の口止め料だ」
と悪戯っぽい返事をした。
「おごってもらわなくても、別に誰にも言いませんけど、まあ、そういうことだったらありがたく
おごられておきます」
春樹も苦笑いを浮かべて、隼人の口止め料を素直に受け取った。

 学食で少し遅めの昼食を取っている最中、隼人はすれ違う学生に何度も振り返られて、
「俺って、二度見したくなるほど、かっこいいんだな」
などと、春樹が返答に窮することを何度も言って困らせた。
 それでも隼人との会話は、要といるときのような、神経をすり減らすようなことはなく、
春樹は久しぶりに心が穏やかな時間を過ごせたと思っていた。


 <<11へ続く>>




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