天 体 観 測
気を失っていた要の財布から運よく、かかりつけの心療内科の診察券を見つけた春樹は、
タクシーの運転手にそこへ向かうように頼んだ。
要を運び込む時、運転手は気を失っている要を訝しそうに見ていたが、行く先を聞いて納得
したのか、何も問わずにそこへ向かってくれた。
春樹は無言で、ただ、タクシーの中から流れる景色を見つめていた。
大学を出る前に病院に予め電話をしていたので、タクシーが病院の前に着くと、既に40歳
くらいの女性が外に立って待っていた。
「あの・・・」
「はいはい、わかってるわ。今、担架持ってくるから待っててね」
女性は院内に戻っていくと、すぐに担架を持って出てきた。隣には同じく40過ぎの白衣を着た
男性が、付いていた。
「要君を乗せるの、君も手伝ってくれる?」
柔らかい声で話しかけられ、春樹は要を担架に乗せるのを手伝う。2人かかりで要をタクシーから
担架へ、そして、担架からベッドへ移すと、医師は大きく息を付いた。
「ふう、要君も大きくなったもんだ。こうも重くては1人じゃ運べない」
「昔は私でも軽々と抱き上げられたのにね」
隣で40過ぎの女性もニコニコと笑みを浮かべながら言った。院内には他に数名若い看護婦が
いるようだったが、医師は彼1人で、診察室の中にいる女性も彼女1人だった。ベテランの看護婦
なのだろうか。春樹には分からなかったが、少なくとも彼等2人が昔から要を知っていることだけは
確かだった。
「君は、要君の大学の同級?」
「ええ、まあ。・・・小学生の頃も同級生だったけど」
医者は目を大きく瞬かせてそう、と呟いた。
「…進藤君、だったね?」
「はい」
「こっちに、おいで、ちょっと話をしよう」
医者はそういうと要を寝かしているベッドから離れ、診療の机の方へ戻っていく。春樹は眠る
要を振り返りつつ、医師の後を追った。
「そこに、掛けて」
言われた椅子は診察室の患者用の席だった。春樹は、別に俺は患者じゃないんだけど、と思い
ながらも既に診察の椅子に座る医師を目の前にして座らないわけにはいかなかった。
「小学校の同級生って、長野の?」
「・・・いえ、東京の。引っ越す直前にちょっとだけ仲良かっただけですけど」
「そうか。さっき進藤君が電話で言ってた話だけど、もう少し詳しく教えてくれるかな」
春樹はサークル室内であったことを出来るだけ事細かに話した。医師はメモをいくつか取って、
そして大方春樹の話が終わると、一言こういった。
「…心的外傷。いわゆる、トラウマによるフラッシュバックだね」
やはりそうなのかと、春樹は納得した。自分でも感じたデ・ジャ・ヴは、要の火事の体験だったのだ。
春樹は要から聞いた真実を思い出す。燃え盛る火事の中、要が最後に見たものは、一体何だった
のだろう。
要は母は笑っていたと言った。
男の上に這いずりながら、抱きしめて、そして笑っていたのだと。その母を要は雛姫の内に見たの
だろう。春樹は軽く身震いがした。
「あ、あの…」
「うん。…何から話そうかな」
「要は・・・今でもここに通ってるんですか?」
「時々ね。回数は昔よりずっと減ったけど。初めてあの子が来たのは小学校5年の冬だった」
そういうと、医者は目を細めた。昔を思い出しているようだった。
「進藤君は要君からどれくらい話を聞いてるの?」
「どれくらいって言うと、火事の出来事とかですか?」
「うん、まあ、それも含めて」
「火事のことは殆ど聞いたと思います。要の母さんの事も弟を助けられなかったことも。それから、
それを今までに1人しか語ったことが無いっていうのと、あと・・・」
「女の子が受け入れられないことも?」
春樹ははっとして医師の顔を見た。
「・・・PTSDの治療はね、とてもナイーブだから、僕としても情報が無ければ患者に間違った
治療をしてしまうかもしれない。要君はね、初めてここに来たとき、火事の記憶を殆ど持って
なかったんだ」
「え?」
「要君は治療によって思い出したんだよ。・・・それと同時にひどいフラッシュバックも引き
起こしてしまったんだけどね」
春樹は精神のケアに関する知識は持ち合わせておらず、医師の言う治療がどのようなものなのか
分からなかった。
「要君はああ見えて非常に強い。強い意志があるからこそ、PTSDになってしまったともいえる。
彼はある部分では火事の出来事を克服したんだけどね、全く別のところで、それを引きずっている」
「…要の母さん、ですか」
「うん」
「初めはね、『火事で弟を救えなかった』事をずっと気にして記憶を閉ざしているんだと、要君の
お父さんが言ってね、僕もそれを受け継いで、治療に当たったんだ」
玄関の前で何度も弟の名を呼んだと、要自身もそう言っていたし、隣人もそれを見ている。父親が
そう思うのも尤もだろう。
「PTSDの治療方法にはね、いくつかあるんだけど、要君には火事の記憶を思い出させて、その
事実と向き合っていくって言う治療を選んだんだ。これはメジャーで、よく効く反面、起きた
出来事が残酷過ぎると、返ってフラッシュバックで悩んでしまう。要君の場合、弟の事だけを
気にしてると、僕もすっかり思い込んでいた節があってね、医師としてはとても申し訳ない
ことをした」
空っぽだった心に、弟を亡くした記憶だけでなく、目の前で狂っていった母の記憶までが
蘇ったのだ。要の心は歪んでしまったのではないだろうか。
医師は苦笑いを浮かべて春樹を見た。
「中学の頃の要君をみたら、きっと進藤君驚くと思うよ」
「どういう意味ですか?」
「手が付けられないほど荒れてた・・・って言えば分かる?」
「え?!」
春樹は医師の発した言葉の意味を理解出来なかった。
(要が荒れていた・・・?)
「今の姿からじゃ、その面影は全く消えたけどね。あると言えば、耳の後ろに5センチくらいの
縫った傷があるよ。何の傷かは、まあ本人に聞くといい。立ち直ってくれて、ホントに
よかった。何の因縁があるのか分からないけど、立ち直るきっかけはやっぱり要君のお母さん
だったんだけどね」
「それ、どういう事ですか?」
「やんちゃだった要君が、女の子を抱けずに吐いた。本人からどう聞いてるのか知らないけど、
要君、相当落ち込んでたんだよ。中学に入ってすぐ位から荒れはじめて、高校1年の終わり頃まで
全然治療にもこなかったのに、高1のお正月明けくらいに、ひょこり現れてね。そこからはちゃんと
通ってくるようになって、そこでやっと、要君の過去の全貌を僕は知ったんだ。随分長い道のり
だったよ。・・・彼にとって、母親のしたことは禁忌だったんだろうね」
小学生の時は頑なにそこだけは語ろうとしなかったのだと、医師は言った。
「そして、治療を続けていくうちに、君のことを知った。大学に入ったときね、東京の小学校の一番
仲のよかった友だちに再会したってすごく喜んでたんだ」
春樹は胸が締め付けられるように痛くなる。
「それでね、要君、その友だちになら全部話してもいいって言ってたの。それくらい心を開ける
人なんだって」
握りしめた拳に汗が溜まる。
「か、要は・・・」
「うん。名前までは言わなかったけど、君に会って、要君が心を開いた友だちだってピンときた。そう
確信出来たから、こんなにも要君のことしゃべったんだけどね。普通は守秘義務でこんな事、ただの
友だちにはしゃべったりしないよ」
(その心を開いた友好関係を要と俺はお互いに崩してしまった・・・)
自分が要をそう言う意味で受け入れられないのは、自分が悪い訳じゃない。だけど、顔を背けた要の
隣にいるのは苦しくて、胸が張り裂けそうだった。
「ごめんね、進藤君。僕と進藤君が会わなければきっと言う機会もなかったんだろうけど・・・」
「はい?」
「要君は、僕の患者だからね、一応話しは聞いてるんだ、要君の気持ち」
「それって・・・」
「うん。要君が八ヶ岳で君に言ったこと」
春樹は自分の顔がかっと赤くなるのが分かった。恥ずかしくなって思わず俯むいた。
「要君ね、7月の終わりくらいに、真っ青な顔して来たんだよ。ここんところ、来てもにこにこ
してたから、症状は安定してると思ってたんだ。まあ、それで、話を聞いてみたら、『興奮して先走り
すぎちゃった』んだって」
『僕、プラネタリウムで無茶苦茶緊張して、無茶苦茶興奮してたでしょ?』
何故かあの時の要の言葉がリフレインする。
(興奮してた?緊張してた?あれが?)
春樹は急におかしくなって、握り締めていた手の力を抜いた。ただ淡々と自分の気持ちを聞かせる
だけに見えるのに、要はいつだって春樹に対して必死だったのだ。
自分が子どもで、子ども過ぎて、相手の心を読み取れてないだけだったのだ。
昔も今も全然変わっていない。
「要は、俺よりも随分成長した大人に見えてた。昔は俺より背も低くて、俺の後ろ付いてにこにこ
笑ってるだけだったのに。大人になったなって思ってた」
「実際そうでもなかった?」
「うん。俺も要も、自分の感情すらコントロール出来ない子どもだったみたい」
春樹がそういうと、医師は静かに笑ってベッドで眠る要の方を向いた。
「要君は、屈折した感情の中で、君にだけはまっすぐ向かってたんだろうね。別に要君を押しつけよう
とか、責任を負ってほしいとかそう言う意味じゃないから、誤解はしないでほしいけど。彼は彼で
必死にもがいてるって事は、忘れないでいてあげて」
「・・・はい」
「そろそろ要君気が付くだろうから、僕は席を外してるよ。医局の方にいるから、帰る時声掛けて」
そう言って医師は立ち上がると、診察室から出て行った。
ぼんやりとした意識の中で見覚えのある天井が見える。
(ここ、どこだっけ・・・)
目を開いた途端に飛び込んできたのは春樹の日に焼けた顔だった。
「進藤」
「気が付いてよかった」
春樹は安堵と共に無意識に笑みを浮かべた。
「進藤・・・」
要は1ヶ月以上まともに春樹の顔を見ることが出来ず、そして、春樹の笑った顔を見たのは随分と
昔のことのように思った。
「お前、突然倒れるから、サークルのメンバーびっくりしてたぜ」
春樹は要の顔をのぞき込む体勢から身体を引いた。要の視界は、また天井の模様だけになった。
倒れたときの事を思い出す。
(雛姫さんを見て倒れたんだな、僕は・・・)
少し思い出しただけで要は身震いがした。視界を遮るように両腕で顔を覆った。
「なんか、かっこわるい、僕」
「馬鹿、こんな事にかっこ悪いも良いもあるかよ」
「トラウマ抱えて倒れるなんて・・・女々しすぎるよ」
春樹はベッドに横になったままの要を見下ろして、困った顔をした。
「俺の家の隣に、松野さんって住んでたの知ってる?」
「え?」
いきなりの質問に要は戸惑った。腕で隠していた顔を出し、春樹を見上げる。
「東京の。実家の隣」
「表札は見たことあると思う」
「あそこに、ゴールデンレトリーバーがいたんだ」
「うん?」
「松野さんってさ、俺が小3の時に引っ越してきたんだけど、夫婦に子どもが1人いて。俺の妹と
同級のヤツ。引っ越してきたときに挨拶に来たんだ」
「うん」
要には全く話が見えない。春樹は何を語ろうとしているのだろう。要はぼんやりと春樹の口元を
見ている。
「家族3人で、玄関先で挨拶して。こっちは俺と母さんと妹で迎えて。妹が同級だから、よろしくって
挨拶して、名前名乗って・・・」
春樹はそこで大きなため息をついた。
「俺さ、『春樹です』って言ったの」
「うん」
「そしたら、松野さんとこのガキんちょが、『家の犬と同じ名前』って」
「うん」
要は吹き出しそうになった。段々と話が見えてきたのだ。
「犬と同じ名前だぜ?しかもさ、『ハルキ』はゴールデンレトリーバーのくせに、無茶苦茶
頭悪いの。それから毎日隣からハルキを叱る声が聞こえてきてさ。『ハルキ何度言えば分かる
んだ!!』って家族中に怒られて、俺はキレたね。そりゃ自分のことじゃないことくらい百も
承知なんだけどさ」
要はくすくす笑いながら、ご愁傷様と言った。
「お前なあ、笑い事じゃなかったんだぜ?んで、俺決めたの。絶対誰も俺の名前を呼ばせないって」
いつだったか、春樹が要のことを名前で呼んだとき、要も春樹のことを名前で呼ぶと言った
ことがった。でもその時、春樹は頑なにそれを拒んだ。
要はそのくだらなくも、重大な理由にやっとありつけたのだ。
「それ以来、俺の名前は禁句なの。名前呼ばれるだけで、あの馬鹿犬思い出すから」
「今は、どうしてるの?」
「ハルキ?俺が高2の時に死んだよ。大型犬って寿命短いんだってさ」
「じゃあ、もう『トラウマ』は無くなったわけ?」
「まあな。でも今更、誰かに名前呼ばれるってことあんまり無いだろ?人なんてさ、他人が
どれだけくだらないって思ってることでも本人にはすげー辛いこともあるし、それを他人が
見下したり、あざ笑ったりしていい事じゃない」
「進藤・・・」
「だからさ、お前が、あそこで倒れたことだって、女々しいなんていわないし、格好悪いとも
思わない」
「ありがとう」
「まあ、お前のトラウマに比べたら俺のなんて比べるようなもんじゃないだろうけどさ」
春樹は照れを隠すように頭をガシガシと掻いて笑った。その眩しい笑顔に要の顔も綻ぶ。
この居心地いい時間を、もう一度どうやったら取り戻せるのだろうと、要は、そして
春樹もそう思っていた。
<<15へ続く>>
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