なかったことにしてください  memo  work  clap
二階から潤滑剤―丘の没我―



先生、今日、オレも大人の階段を一段上がったらしいです――小学校5年・男子


「で?一大事って何?」
玄関先でオレとアツシを交互に見比べて雨宮は困った顔をしていた。
「とにかく頼む、部屋に入れて。そこで話すから。・・・直ぐ終わるし、話聞いたら帰るし
お前にも迷惑掛けないから・・・」
4ヶ月ほど前、雨宮の家に家出して以来、オレは雨宮の家には来なかった。正直、雨宮の母さんに
どんな顔をして会えばいいのか分からなかったのだ。
 だけど、今はそんなことを言ってる場合じゃないくらい、緊急事態なのだ。
「わかった」
雨宮はオレにはよく分からない表情で頷くと部屋に通してくれた。
「兄ちゃ、誰?」
「ああ?友達だよ、友達、お前眠いなら寝てていいぞ」
「アツ、別に眠くないよ」
アツシは玄関から部屋に向かうその僅かな道のりでさえも、ものめずらしそうにきょろきょろして
まっすぐに歩こうとしなかった。
 部屋の前で雨宮が扉を開けて待っていてくれたから、オレはアツシを無理矢理引っ張って
部屋の中に押し込んだ。
「兄ちゃ、いたーい。・・・あー!パパのベッドだー!」
部屋に入った瞬間、アツシはベッドにダイブする。アツシの小さな身体がぽんと跳ねて、ケタケタ
と笑い声が上がった。
「兄ちゃ、パパのとおんなじ!」
って、お前何やってんだよ、人の家のベッドで。アツシに小言を言おうとした瞬間、後ろで
雨宮が笑い出した。
「お前等、兄弟揃っておんなじことすんだな」
あ・・・。オレもやったんだっけ。


「そんで、一大事ってのは、いつ話すんだよ?」
雨宮の部屋で、アツシが暴れて、疲れ果てて眠ってしまっても、雨宮が頼んでくれたデリバリーの
ピザを食べ終わっても、オレは未だに質問出来ずにいた。
 頭パニックでココまで駆け込んできたのだけど、いざ雨宮を目の前に、どこから聞き出せば
いいのか、分からなくなってしまっていたのだ。
 沈黙が一秒伸びるたびに、言葉に重力が掛かってくる。こんなことならパニくってるの時に
そのまま口走ってしまえばよかった。
 学校のことや、テレビの話や、どうでもいい事で時間はどんどん過ぎていく。雨宮の部屋の
時計は10時をとっくに過ぎていた。随分と長く粘ってしまった。粘ってしまったのはいいけど、
もう、どう切り出せばいいのか、さっぱりだ。
 雨宮は勉強デスクの椅子に座って、オレはベッドを背もたれにして床に座っている。微妙に
開いた距離が、言葉を失くさせる。ヒデキやタケなんて、気が付けばべったり張り付いてきて、
耳元でエロい話や馬鹿な話をすぐにする。秘密にして欲しい話って、もっと密着して話すもん
じゃないのか?こんな先生と生徒みたいな距離を作られると、手も足も出ないような気がして
・・・しかも、これからオレが聞こうとしていることがものすごく恥ずかしいことだって分かってる
から、何にもいえなくなるんだ。
 オレは雨宮を見上げた。相変わらずよく分からない表情だ。怒ってるのか不機嫌なのか、
元々そういう顔なのか。コイツだって面白いこと言うときあるし、さっきみたいに笑うときだって
あるのに、オレと向き合うと、必ずこういう顔をする。読めないやつだ。
 雨宮の机の上はやりかけていた宿題や塾の問題でいっぱいになっていた。積み上げられたテキスト
の中に、「HIV感染の背景」と書かれた本の背表紙が見えた。
 あ、雨宮もエイズの宿題やってるんだ・・・。
「それ・・・」
「どれ?」
「その、本」
「ああ、これ?総合の宿題、やろうと思って、父さんの部屋から借りてきた」
そういえば、元はといえば、この宿題の所為でオレはパニックになっていたんだ。
雨宮は知ってるよな、きっと。病院の息子だし、頭良いし。
「なーなー。エイズってどうやってうつるか知ってる?」
オレの質問はそんなに不用意なモノなのだろうか?雨宮は引きつった笑いを浮かべてた。
「し、知ってるよ」
「何?」
「何って、天野知らないの?」
オレが質問していたのに、逆に聞かれてしまった。
「知ってる・・・っていうか、数時間前に知った。・・・すげえショックでさ・・・」
数時間前の記憶が蘇る。タケやヒデキに吹き込まれた俺の知らない世界。リアルに落ち込んでいると
雨宮が聞き返してきた。
「ショックって?」
「うん」
「何が?」
「わ、笑うなよ」
「うん。別に笑わないけど?」
雨宮はちゃんとオレの方を見て、真剣な顔をしていた。さっきの引きつった笑いはもう消えている。
なんだか、先生みたいだ。・・・こいつ、将来医者になるんだよな、跡取り息子だから。
 でも、雨宮なら、医者に向いてるんじゃないかってオレは勝手に思った。だから、オレもそんな
雨宮だから、思い切って今日の話をしてみることにしたんだ。
「オレ・・・今日、初めて知ったんだ」
「何を?エイズの感染経路?」
そんな、まじまじとオレの顔を見るなって。恥ずかしいだろ。
「それも、そうだけど・・・その、あの・・・どうやってするか・・・を・・・」
「どうやってって・・・」
「どうやってって、そのエッチなこと・・・どうやってするか・・・」
「・・・?!」
雨宮が言葉を失っている。
 ・・・やっぱり、そうなんだよな。そういう反応なんだよな。俺達の年頃ってそんなの知らないヤツの
方が少ないんだよな。
 オレって、そんなに世間知らずだったんだ・・・。子どもの作り方だって知らなくって、おまけに
エッチがどんなものかもしらなくて。
 雨宮はオレの発言があまりにも凄すぎたのか、その場で固まっていた。
「雨宮ぁ・・・」
「ごめん。ちょっと驚いた」
「・・・いいよ、べつに。さっきタケやヒデキに散々笑われたし、馬鹿にされたし、そんでもって、
よーく教えてもらったし」
「教えてもらったって?!」
「うん。やり方とか、教えられた」
雨宮が頭を抱えている。オレだって頭抱えたいよ。一生分のエッチなこと教えられた気分だった。
「オレさ、え、エッチってそういうことするなんて知らなくて」
「うん?」
「それどころか、子どもの作り方もしらなくて・・・。そんな風にしてオレが出来たんだと思ったら
ショックでさ」
「お前、天然?」
「・・・」
雨宮の顔が少しずつ歪んでいく。口元が笑い出しているのが分かった。
「笑いたければ笑えよ!」
「・・・ごめん、ごめん」
オレが膨れていると、雨宮は本気で笑い出した。どーせ、お前もあいつ等と同じなんだよな。くそう。
タケとヒデキのニタニタした顔を思い出す。オレを挟んで、エロ本広げて、あーだ、こーだいいながら
オレにどうやって子どもができるのか、寒気と吐き気がするまで教えてくれた。
 高揚より恐怖。興奮より恐怖。恐怖。初めて見る母さん以外の女の人の裸は、オレに恐怖しか
くれなかった。
 オレはあの時の気持ちを思い出して身体が震えた。うえ、気持ち悪い。雨宮はそんなオレの姿を
見て、心配そうに聞いてきた。
「大体、なんでそんな話になったんだ?」
「それだよ・・・」
オレは雨宮が手にしたままの本を指差す。元はといえば、全てはコレのせいだ。
「これ?」
「どうやってエイズになるかって話でさ・・・。今日、総合の授業で宿題出てただろ?帰りにタケと
ヒデキと話してたんだ。プリント埋めるのをさ、オレは親に聞けばいいと思ってたのに、あいつ等
図書室行かないと調べられないって言って。そこから、オレが間違ってることに気づいた・・・」
「そっか」
災難だったなと、雨宮は言ったが、でも今知らなかったらオレはいつ知ることになったのか。
ひょっとして中学に入っても知らなかったかもしれない。中学生でもする人がいるっていうのに、
オレは中学生になっても、知らないなんて、笑いものだよな。
 考えようによっては、今知れてよかったのかもしれない。
「で、結局、感染経路は分かったの?確かあのプリント、感染経路のトップを書くんだったよな?」
「全然」
それどころじゃなかったんだよ、と雨宮を睨むと、雨宮は手にした本をオレに渡してきた。
「一番初めの付箋のページ見てみろよ」
手渡された本には、いくつかの付箋がしてある。
オレは言われたとおり、ページを開ける。そこには「HIV感染者の感染経路の動向」と書いてあり
様々な折れ線グラフが表示されていた。
 雨宮の父さんの部屋から持ってきたというその本は、なんだか小難しいことばかり書いてあった。
こんな専門書みたいなのみても、わかんない。
「そのページの多分一番上のグラフが答えだよ」
オレは雨宮に言われたとおり、一番上のグラフを見る。折れ線が何本も出ていて、その一番上に
なっている線のところに書いてある文字を読んだ。
「『男性の同性間による性的接触』・・・?どういう意味?」
漢字ばっかりでよくわかんないよ。
「・・・わかんない?」
「うん」
「何がわからない?同性?性的接触?」
同性っていうのは、性が同じってことだから、男同士ってことだろ?性的接触っていうのは
・・・えっと・・・もしかして・・・。
 オレが引きつりながら顔を上げて雨宮を見ると、雨宮はあっさりうんと頷いた。
「男同士でするって事」
がーん、がーん、がーんと俺の中で低音が鳴った。
や、や、やっぱり・・・男同士でもするんだ・・・。
 そこで、オレはやっと雨宮の家にやってきた本来の目的を果たすことになった。モジモジしながら、
必死で言葉を探して、オレは雨宮に聞いた。
「あ、あの・・・」
「何?」
「お、男同士って、その・・・どうやって・・・」
「?!」
「あ、いや、その・・・オレ、普通にするって事自体知らなかったし。その、お前なら、頭いいし、
医者の息子だし・・・」
ああ、もう。まどろっこしいな。オレは燻っている気持ちの全てを吐き出す。
「お前、うちの父さんが男の人と住んでるって知ってるから、お前になら聞けると思ってさ・・・。
男同士って、するのか?どうやってするんだ?」
オレが恥を捨てて、がんばって聞いたのに、雨宮はぽかんと口をあけたまま、固まっていた。
「・・・お前の一大事って、それだったの?」
「うん」
雨宮は益々複雑な表情になって、俺を見つめていた。それから、オレの隣まで来て、同じように
ベッドを背もたれにして座ると、俺の開いていた本を取り上げた。
 それから、何ページか捲って、またオレに渡してくる。
「ここ読んでみろよ」
オレは示された文を目で追った。
・・・腸は膣よりも傷つきやすく更に水分の吸収率も高いため、男性の同性間性的接触による感染者が
高いが、異性間でも腸内射精を行った場合には・・・
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・?!


えっと・・・・。

腸って、つまり・・・そこに入れるってこと、なんだよな?

言葉を失くしたのはオレだった。パクパクを口を開き、雨宮の方を見ると、居心地悪そうに雨宮は
ため息を付いた。
 オレだって、ため息付きたい。だって、つまり、その、これを、父さんと天がしてるってこと
なんだろ?天が父さんを・・・?それとも、父さんが天を・・・?
 あー、もう、最悪、最悪、最悪だーーーーっ。どっちでもいいし、そんなの考えたくもない。
オレは本を閉じると、雨宮に返した。難しい本のように見えて、とてつもない(エロ本に匹敵する
くらい)の情報量に、オレは眩暈がする。
 体操座りで頭を抱えていると、雨宮の声が降って来た。
「天野・・・?」
「うん。・・・いろいろ教えてくれてありがとう。雨宮には恨みないけど、ショックが増えただけに
なった。父さんも天も、最低だ」
「・・・でも、男同士で好きになったら、それは普通のことなんだぜ?」
「普通でも、最低。・・・大人ってみんな、最低だ」
お前も大人になれば分かるよと、事ある毎に言われているけれど、最低なことしかしないのなら、
大人になんてなりたくないよ。
 雨宮の家にいると、結局最後は泣きたくなることが起きるらしい。オレは鼻の奥でつーんとする
刺激を必死に抑えながら、立ち上がった。
「オレ、用事すんだし、また雨宮の母さんに見つかったらマズイし。お前にも迷惑掛けるし。帰るよ」
この場からダッシュで逃げ出したかった。どこに逃げるわけでもないけれど、じっと座ってるのが
辛かった。
 新しく与えられた知識は、拒絶反応しまくりで、じっとしてると、身体がおかしくなりそうだった。
「じゃあ、またな」
オレはそれだけ言うと、そのまま部屋を飛び出した。一個飛ばしで、階段を駆け下りる。
・・・あ。アツシ忘れた。ベッドで眠ったままだ、あいつ。
玄関を飛び出してからそんなことに気づくなんて、本当にオレはどうかしてるんだ。もう一度雨宮の
家に戻ろうとしたときに、雨宮がアツシを背負って玄関を出てきた。
「お前、忘れ物が多すぎる」
「・・・ごめん」
雨宮は呆れて笑っていた。

 背中にアツシを乗せて、オレはとぼとぼと家に帰る。公園を突っ切ると、公園の時計は12時を
差していた。
 このときになって、漸くオレは、自分の立場を思い出す。
やべえ、こんな夜中に帰ったら、父さん絶対怒ってるよな。・・・探してるかな。マズイよな、これ。
とにかく走って帰ろうと眠ったアツシを背負いながら、家までの道を全力疾走した。
走りながらも、頭はグルグルで、父さんや天の顔がまともに見れないと思った。どう考えたって
変な目でみてしまう。
 ああ、そうか。これが天の言ってた「俺も変な目で見られるからな」ってことなのか。大人は
そういう事情を全部分かってるから・・・。
 オレだって別に偏見で見ようと思ってるわけじゃないけど、そういうのを知ってしまうと、どうして
いいのか分からなくなる。
 こんなことなら、知らなければよかった。天と父さんが、何してようが構わなかったのに、どちくしょう。
走りながら、涙が溢れて、やっぱり雨宮の家の帰りは泣いてしまった。

 家の手前で止まると、背中でアツシが目を覚ました。
「兄ちゃ・・・?」
「起きちゃったか。まだ寝てろ」
「兄ちゃ、どこ?」
「もうすぐ家つくから」
見ると、玄関に明かりがついているだけで、それ以外は全て電気が消えていた。どういうことなんだ?
オレを探しまわっているのか、もう寝ているか。それはないよな、絶対。オレもアツシもいないんだ
もんな。父さんが気にせず寝ちゃうなんて考えられない。
 ってことは、やっぱり探し回ってる・・・。どれだけ怒られるのかな、オレ。でも理由なんて言えないし。
うん。絶対言えない。それは、どんなに怒られても、絶対に口にはできない。
 とにかく今は一分一秒でも早く家に帰ることだ。オレは再びダッシュし始めた。

玄関までもう直ぐ、ってところで、オレはぼけーっとして歩いている見慣れた顔を発見した。
や、やばい・・・。
当然、相手もオレに気づいたようで、オレはそこで固まってしまった。
「父さん・・・」
 怒られると思った割には、父さんは、オレの顔を見て、酷く驚いているだけのように見えた。


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【天野家ことわざ辞典】
二階から潤滑剤(にかいからじゅんかつざい)
天野家の主寝室は二階にある。ベッド横にはベッドと同じデザインのサイドテーブルがあり、
その、サイドテーブルの引き出しを開けると、潤滑油が入っている。
ほーら、二階から潤滑剤が出てきたよ。
ゲイカップルには潤滑油は必需品だという意味。






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