二階から惚れ薬―晴の実際―
先生、ごめん。色々考えたけど、やっぱり俺は君じゃないとダメみたいだ――35歳・会社員
ざわざわと体中に駆けめぐる、見覚えのある感覚に、俺は止まっていた意識を取り戻した。
二階堂、俺の股間を触ってないか・・・?
え?え?何?二階堂、何してんだよ!
「や、やだ。お前何してん・・・ん・・・」
ズボンの上から握られて、思わずぼわっと身体が熱くなった。
二階堂が俺の服に手を掛けている。真剣に見つめられて、身体が金縛りにでも合ったみたいだ。
緊張で四肢が強張っている。二階堂の腕を握った手が震えた。
「お前、結構色っぽいんだな」
二階堂の顔が俺の首筋に降りて、音を立てて吸われた。背筋がぞくぞくする。このまま目を
閉じて何も忘れてしまいたい気持ちにもなる。
天の浮気疑惑、傲慢な態度。たまたま見たのが疑惑だっただけで、本当は俺の知らないところで
浮気しているかもしれない。一つの疑念は新たな疑念を呼ぶ。
俺は遊びの中の一つに過ぎないんじゃないのか、だったら、俺との暮らしは重過ぎるのかと。
天の優しく微笑む顔が白く消えていく。
俺は目の前の強い感覚に現実に引きずり戻された。
二階堂の手がYシャツの中でうごめいている。乳首をつままれて、その刺激に身体が反応した。
だけど、次の瞬間、その手が天じゃないことに俺は吐き気を催した。
(嫌だ・・・天じゃない・・・)
「やめ・・・ろ」
二階堂、何してんだ、馬鹿。何だよ、これ。冗談?冗談だったら性質が悪すぎる。二階堂だって
許せない冗談があるんだぞ。俺は掴まれた腕を引き離してグルグルと腕を回した。何度か二階堂の
顔や胸にパンチが当たった。
「痛て、痛いってーの」
「な、な、な、何?!」
俺が動揺していると、二階堂はしれっと言い放った。
「何って、する気になったんだろ?」
「何を?!」
「何ってセックス」
顔が青ざめていくのが自分でも分かる。何?いつからそんな話になってたんだ?俺が?二階堂と?
セックスするって?
「しない、しないってば。しないし、できないし!!」
俺は二階堂をねのけて、ソファーから立ち上がった。二つも外されているシャツのボタンを慌てて
閉める。その様子を二階堂は楽しそうに眺めている。なんだよ、すごい恥ずかしいじゃないか。
二階堂はニヤニヤ笑って本気なんだか冗談なんだか分からない口調でしゃべって来た。
「あーあ、逃げられちゃった。これ以上追いつめても気まずくなるだけだし、つまみ食いはお預けか。
まあいいさ、天野とは長い付き合いだし」
「は?」
「ごめん、ごめん。軽い冗談」
「冗談って・・・何が冗談?お前が男とセックスできること?それとも、俺とセックスしようと
したこと?何?お前もそういう趣味の人なの?」
「天野、興奮しすぎ」
「こ、興奮しすぎって、この状況を興奮せずにいられるかよ。俺冗談にも襲われそうになってた
んだぜ?同僚に!」
二階堂は軽くため息を吐き、タバコを咥えて、それに火をつけた。
口から白い煙が昇っていく。白く細く流れていく煙を俺は見つめた。
「・・・冗談、か。冗談といえば冗談だし、本気といえば本気」
「わかんないよ」
「お前、俺がバツ1なの知ってる?」
「え?そうなの?」
「そうなの。結婚してたのも、離婚したのも言わなかったからな。俺、会社の後輩に手出してさ
それが、ばれて離婚」
「浮気が原因で離婚って、そんなひどい浮気でもしたのか?」
いや、浮気されたらそれだけで十分離婚の原因になるだろうけど。現に俺だって、天の浮気疑惑で
こうやって喧嘩して家を飛び出してきたわけだし。
「ひどい浮気か・・・。彼女にしてみたら、酷い浮気だったんだろうね。なんて、相手は木下君
だったし。覚えてる?俺の部下の木下君」
は?え?マジで?
俺は自分の目玉がぐりぐりしてるのが分かるくらい二階堂を凝視した。木下といえば、5年
も前に突然会社を辞めた俺達の2つ下の男だ。
入社して2年くらい経って、ある日突然、辞めて行った男。今まで元気に仕事にも不満なく
それどころか、楽しそうに毎日過ごしてた・・・と周りの誰もが思っていたのに、木下はホントに
突然、「もうやっていく自信がなくなったので辞めます」と言い残して会社を出て行ってしまった。
誰が止めても辞める決意は変わらなかったし、そこまでして辞めようとしている人を誰も本気で
止めはしなかった。
当時理由は分からなかったけど、その理由が二階堂のせいっていうわけなのか?目の前に座る
男が黒い悪魔のように見えてくる。
「そんなに、引くなよ。天野だって、息子の担任と付き合ってるんだろ?」
「いや、まあ、それはそうなんだけどさ」
俺も大して人のこと言えないのか、そうか。
「そんな過去があるってことはさ、俺が男も抱けるのは、ホント。だから、天野も抱けると思うよ」
「だ、だ、抱かなくていいって!」
そんなこといわれて、体中に気持ち悪さが駆け巡る。俺が、二階堂に抱かれるなんて、嫌だ。
俺は・・・俺は・・・
身体中に残るのは天の触れる感触。それ以外を受け入れる気には全くならない。たとえ、天が
この先、ホントに浮気しようとも、俺は天以外の人とは絶対しない。したくない。そうはっきりと
わかった。
二階堂の冗談にしてはキツすぎるこの行為をどう受け取っていいのか判らないけれど、二階堂は
同僚だし、いい仲間だし、ここでトラぶって仲が拗れるのは俺としてもあまりいいことではない。
そう思ったから、俺は二階堂のしたことを、冗談だと片付けることにした。
「二階堂、冗談、キツすぎるよ。いくら俺がちょっと変わってるって皆に言われてても、さすがに
これはダメだって」
「ごめん、ごめん。天野があまりに、かわいかったからさ」
「かわいいってなんだよ!」
「お前、傷ついて、ちょっと乙女っぽかったから」
「意味わかんないこと言うなって」
「まあ、物事には引き際が肝心っていうし、冗談はこの辺で辞めとくよ」
「・・・そうしてくれ」
俺はほっと胸をなでおろし、二階堂の性質の悪い冗談から抜け出せたと思った。だけど、二階堂は
まだ言い足りないようで、ニタニタ顔を浮かべたままだった。
「何だよ・・・」
「まあ、今の天野にはこれくらいまでならイケるってことが分かったし、次に期待ってことで」
「に、二階堂!」
どこまで本気なんだ。二階堂のことは無理無理片づけて、その話は終わりにさせる。
それよりも、俺はさっきから、別のことが頭を支配し始めていた。衝動的に心の中で叫んだ
相手。求めているもの。「そこ」に「帰りたくて」仕方なくなっている。
時計を見ると、家を出から1時間と25分しかたっていなかった。頭を冷やすために出たはずだった
のに、気が付いたら蒸発させられて、それでも、自分なりの結論ははっきりと出た。
俺の短い家出はあっさり挫折したのだ。
丘でも4日は粘ったのにな。
「俺、やっぱり、帰るわ」
泊めてくれだのやっぱり帰るだの、わがまま言ってるとは思ったけど、もう、このままここにいる
理由もない。そういうと、二階堂はしたり顔で言った。
「ははん、やっぱり、恋人がいいって?俺に襲われて『やっぱりあなたじゃないとダメなの〜』って
なっちゃったわけだ?」
「二階堂!」
「はいはい、誰にも言わないから、さっさと帰りな」
「お、お世話になりました!」
俺は見破られたことに赤くなって、礼だけいうと、そのまま部屋を飛び出した。
「結局、俺は当て馬か」
リビングで二階堂の独り言にしては大きすぎる声が聞こえてきたけど、俺はそれには聞こえない振り
をした。
・・・メガネがない。どこで外したんだ俺?目見えねえ・・・
だけど、取りに戻る気にはなれなくて、ぼやけた視界の中で家への道を探っていた。
「天のいるところに帰りたい」
二階堂と話している間、その思いはどんどんと大きくなっていった。怒っていたはずなのに。天の
横柄な態度に辟易してたはずなのに。
やっぱり、俺は天じゃないとダメなんだって、二階堂に触られた瞬間思った。あんなの、天以外
絶対に受け入れられない。
こんなにも天のことが好きなのか、俺は。いつの間にかじわじわと侵略されて、もう天なしの
人生なんて考えられなくなっている。
天の浮気疑惑は、許せないと心の隅っこでは今でも思ってるし、天に対して不信感を持っている
のも確かだ。
だけど、それ以上に、俺はこのまま天と終わるなんてことの方が数百倍嫌だ。
天が本当に若い女の子の方がいいのなら、別れてあげたほうがいいとか、天の態度にムカついて
別れてやるだの思っていたけど、別れるなんて到底無理だ。
別れたくない、はっきりとそう思う。
天・・・。
天を思ったら、家を出たときとは別の涙が溢れた。
やっちゃん、君を思ってたときよりも、俺、重症かも。
俺のこと、呆れてるだろうな。勝手に怒って、勝手に家飛び出して。こんな30過ぎた男の癖に
小さいことで悩んだりして。
身勝手な年上はどうやったら許してもらえるんだろうな。天の笑う顔が浮かんでは消えていく。
100回、好きだって言ったら許してくれないかな。
いつだったか、俺が簡単に「好きです」って言う天の気持ちを信じられなくて、
「そんなに軽々しく言うと、信用度が下がるんだぞ」
って言ってやったら、あいつ、
「たった一度だけの重たい愛の告白より、薄くて信用度が下がっても、俺は毎日晴さんに好きだって
言いまくってる方が楽しいけどね。ほら、ちりも積もればなんとやら、でしょ?100回好きって言ったら
きっと、1回の愛の囁きと同じくらい、うん、きっとそれ以上に幸せな気分になるでしょ?
1回より2回。2回より10回。10回より100回。好きなんて気持ちは一杯言った方が絶対気持ちいいんだ
から。晴さんも思ってるのなら、溜めてないで、欲求不満になる前に俺に一杯言ってね」
あの後、天はその日言った「好き」を本当にカウントしていて、寝る前に
「今日は103回でした」
なんて律儀に教えてくれたものだった。
ばかばかしいな。でも、そういう天が好きだ。もう一度、あんな風にお互いの気持ちを分かり
合いたい。
溢れてくる涙を必死で拭いながら、家を目指す。
天に会ったら、まずなんて言おう。ごめん?勝手に怒ったの許して欲しい?・・・でも、どれも
違う気がする。謝るのはおかしいんだよな。ココは男らしく、グダグダ言わず俺について来い的な
台詞をかますのがいいんだろうか。
俺は、高揚した気分で何を言おうか考えていたが、ふと、その前にもっと先に考えてなければ
いけないことに気が付いてしまった。
・・・天、今どこにいるんだろう。
家にいるのか?怒って飛び出した俺に愛想尽かして、出て行ってしまったりしてないか?
家を出て行く事だって十分ありうるよな。俺に縛られたりしなければあの家にいる必要なんて、
全くないわけだし。
そんな自分の妄想に俺は身震いした。嫌だ、行かないでくれ。せめてもう一度だけ話し合う
チャンスが欲しい・・・。
そう思ったら、俺は駆け出していた。殆どない視力で走った所為で、いろんなものに何度か
ぶつかって、何度か謝って、そのうちのいくつかは、電柱だったり、看板だったり、犬の散歩を
している人の、犬の鎖だったり。
数々の障害物を撃破しながら、俺は家の近くまでどうにかたどり着くことが出来た。30メートル
手前で呼吸を整える。
自宅を見上げれば、寝室の明かりは消えていた。寝ているわけではないだろう。そうなると部屋に
明かりがついていない理由なんてただ一つだ。
すうっと身体が冷えていく。
天・・・。ホントに出て行ってしまったのか?もうダメなのか?それでも、気持ちを強く持って、
諦めないと、もう一度心に誓う。
逃げるのなら、追っかけるまでだ。
歩き出したそのとき、俺は正面から、息を切らせて走ってくる見慣れた顔を発見した。
な、なんで、こんなところに・・・?
向こうも俺に気づいたらしく、俺を見ると、動きが止まった。
俺達はそこで暫くお互い固まったままでいた。
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【天野家ことわざ辞典】
二階から惚れ薬(にかいからほれぐすり)
振り向いてほしい人には効かずに意図しない人から突然迫られて、あたふたする様。
二階で使おうとしていた惚れ薬が零れて一階の住人にかかってしまい、一階の住人に惚れられて
しまったという逸話からできた言葉。
二階から惚れ薬(にかいからほれぐすり)
振り向いてほしい人には効かずに意図しない人から突然迫られて、あたふたする様。
二階で使おうとしていた惚れ薬が零れて一階の住人にかかってしまい、一階の住人に惚れられて
しまったという逸話からできた言葉。
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