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結局のところ、翔は亮太を憎みきれないでいた。それは幼馴染という長年一緒に連れ添った友人で
あると共に、亮太の才能を認めていたからだ。
亮太の才能を一番知っているのは自分だという自負もある。野球を辞めた今でさえもその思いは変わらない。
窓越しに亮太を見送った後、翔はそのままキッチンへと向かった。キッチンでは母が朝食の準備をしていた。
「おはよう、翔。今日はやけに早いのね」
母親は驚いた表情で翔を見る。翔は小さくああと頷いてテーブルに着いた。
母の背中は幾分小さくみえた。母と笑いあって話しをしたのは何年も昔だったような気がする。
そうだ、まだこっちに満がいた時だ。じゃあ、あれは中1の頃か。翔は母の背を見ながら思い出す。
あの頃、よく満は家に来ていた。晩ご飯を一緒にするときもあった。そんなとき、決まって母は腕を振るった。
部活でクタクタになって帰ってくる翔と、そのままついて来た亮太、そして、なぜか、彼等よりも早く相場家の
食卓にいて母と楽しそうに話す満。三人の育ち盛りの息子に囲まれて母はとても幸せそうだった。
『満、お前、また来てんの?』
『ああ。だって、涼子さんの飯、ウチより旨い。それに、翔が部活で遅いから、1人で淋しいんだって。俺、翔の
変わり』
『あら、そんなことないわよ、みっちゃんも大切な息子なんだから』
『おばさん、俺、もうくたくた、早く飯食わして』
『亮太は、先に手と顔を洗ってらっしゃい』
甲斐甲斐しく世話を焼く母。大変だったろうに、それでもその溢れ出すパワーは途切れることを知らなかった。
しかし、その面影すら今はない。あのときから随分と時が流れたように感じる。翔の上にも、そして、母涼子の
上にも。
幸せの時間は振り返ればもろく崩れ去っていくのがよく分かる。満が転校する少し前に翔の父は家を空けた。
よくよく考えればその少し前から母はおかしかった。妙に明るく、空元気で、満や亮太が来ることを何より
楽しみにしていた。
父親がいなくなった日、涼子は笑って、「父さん、出て行っちゃった」と翔に告げた。
未だに明確にその理由を翔は知らない。ただ、今でも父とは交流があるし、母も時々会っているようだが、
父が出て行った日から、翔の中で大切なものがバラバラと一つずつ抜け落ちていくような気がしている。
母は日を追うごとに痩せた。ぽっちゃりとした顔はすっかりこけて、10歳以上老け込んで見えた。
翔はそんな母が嫌いだった。豪快で気さくで、誰とでも(息子の友達にすら)仲良くなれる母が翔は
好きだったからだ。急に萎んで今までの自分を全否定するような姿を直視できなかった。
そこから、翔はあまり母とは口を聞いていない。
「ごはん、食べる?」
「ああ、うん」
翔は生返事をして、机の上の新聞を見た。母が途中まで読んでいたのだろう、スポーツ記事のところが手前になって
二つに折れている。
昨晩のプロ野球の記事が大きく載っている。ヤクルトと広島が共に勝って差は縮まらなかったらしい。球団名が
変わっても相変わらず横浜はBクラスだ。地元だというのに、記事に熱意がまったく感じられない。
ペナントレース前半から、早くもBクラス争いの第一候補なのだから、自然と力も入らなくなるのかもしれない。
その下には小さく、「夏の高校野球、地方大会注目選手」と見出しが出ていた。翔は新聞を一面に戻して、
四つ折にする。
「ご飯、これくらいでいい?」
母がご飯茶碗を差し出す。翔はそれを頷きながら受け取った。久しぶりに母と2人で食事をした。
山盛りによそわれたご飯に、こんなに食えるかよ、と辟易しながらも、何故か甘い味がする。
終始無言で朝のテレビのニュースだけがキッチンの全ての音だった。
(満でもこの光景をみたら、驚くんかな・・・)
あの冷静沈着男を今なら驚かせることができるかもしれない、翔は皮肉たっぷりにため息をつく。
「・・・調子、悪いの?」
母がため息に気づいて声をかける。
「いや、別に」
「そう。ならいいけど。今日、仕事で遅くなるから、戸締りだけはちゃんとしてね」
ご飯を早々に片付け、母は身支度を始める。翔はキッチンのテーブルで朝のニュースを眺めていた。
朝早く起きたはいいが、俊敏に動けるほど体力がなかったのだ。
自分がダメになっても働かなければ生きてゆけない者とダメになったまま生きてゆける者の差だった。
7月になると、暑さは一層増した。体の芯から蕩け出しそうな暑さだった。この夏、翔は一年前から
やっているコンビニのバイトの他にカフェバーのバイトも始めた。
そのお店はコンビニのある通りと同じ通りにある。カフェバーの女店長が、翔のコンビニでの
働きぶりとその容姿に惚れてスカウトしたのだった。
翔は、年齢を誤魔化しカフェバーの仕事を始めた。それは翔にとって未知の世界だったゆえに
自分が同学年の奴等よりも大人である気分になった。
「おはようございまーす」
翔がカフェバー「craze」に入ると、客はおらず、照明が殆ど消えていた。
「・・・?」
周りを見渡すと、バイトの桜井が閉店業務をしている。
「あ、あれ?今日、お休みですか?」
声をかけると桜井は振り返った。
「ああ、おはよう相場君。今日ね、樹里さん風邪でダウンしちゃって。昼間のカフェまではなんとか
こなしてたんだけど、どうにもシンドイらしくて、夜はお休みって。相場君に連絡取ろうと思って
たんだけど、連絡先わかんなくて」
「そうだったんですか。で、樹里さんは?」
「上で寝てるよ」
「大丈夫ですか?」
「うん、心配なら見てくるといいよ。若い男の子のエキス貰うと元気になるって言ってたから」
桜井は笑って上を見上げる。小柄で童顔なこの22歳の大学生は、隣に並ぶと年齢の差を殆ど感じさせない。
「あ、そうだ、相場君ベル持ってたよね?今後のこともあるし、番号教えてくれると助かるんだけど」
「ああ、いいっすよ。桜井さんもベル持ってるんですか?」
「うん、まあね。彼女が持てってうるさくて」
「えー。桜井さん彼女いるんですか〜。いいですねー。可愛い?」
「僕には可愛く見えるけど、多分、相場君が見たら、普通に見えると思うよ」
「人がどうこうじゃないっすよ。桜井さんの彼女、桜井さんに好かれててきっとすっげー幸せなんでしょうね」
桜井は照れたようで、はにかんで笑った。
翔は店の奥の階段を上がると、樹里の部屋の前でノックした。
「どうぞ〜」
部屋の中からけだるそうな声がする。翔はゆっくりとドアを開けると、顔だけを部屋の中に突っ込んで
様子を伺う。
樹里は隅のベッドで寝そべっていた。
「大丈夫・・・ですか?」
「大丈夫そうに見える?」
「あんまり」
「うん、じゃあ、そういうこと。そんなとこ突っ立ってないで入っておいで」
掠れた声で樹里は言った。
「ついでに、そこの冷蔵庫からポカリとってくれる?相場君は好きなの飲んでいいよ」
翔は言われた通り隅っこにある一人用の小さな冷蔵庫からポカリスウェットと隣にあった
ウーロン茶を出した。
そして、それを手渡すと、近くにあったスツールを引き寄せてベッドサイドに座る。
「この部屋ってこんな風になってたんですね」
「あ、そっかー。相場君入るの初めてか」
「ここに住んでるんですか?」
「まさか。泊り込むときはあるけど、ちゃんと家は別にあるわよ」
翔は部屋を見回した。確かに生活するには家具も家電製品も少なすぎる。殺風景な部屋だった。
手渡されたスポーツドリンクを一口含んで、樹里はさっきよりも少し潤った声で唐突に聞いた。
「仕事、慣れた?」
「まあ、なんとか」
「桜井君はちゃんと教えてくれてる?」
「はい。いろいろと」
「あの子は、フォローの名人だからね」
「はい。俺には見習うとこが多すぎます」
「そういう性格なんだと思うわ」
「俺、桜井さんと一緒にバイトして、自分が気の回らないヤツだって分かりました」
「あの子の隣にいたら、あたしだってそう思うわ。店長よりも先に気づくこと多すぎなんだもの、桜井君」
「でも、全然いやみっぽくないのが、凄い」
「人格よね」
樹里はうふふと笑った。
「相場君もさ、すごいいいと思うのよね。ちゃんと優しさを持ってるとこ」
「え、あの・・・そうですか?」
「うん。むちゃくちゃな生活送ってるみたいだけど、本質は優しいいい子だと思うな」
「あはは、俺、女の子には優しいですよ」
「うん。きっとね。でも、そういう優しさじゃなくて、人を認める優しさっていうのかな」
「どういう意味?」
樹里は翔の方を見るとオーバーなリアクションで肩を窄めた。
「相場君があたしと同じ年齢になる頃には分かるかもね」
「えー、それって何十年後ですか?」
「あんた、ちょっとあたしを幾つだと思ってるのよ。相場君と10歳くらいしか離れてないわよ」
「くらい・・・ねえ」
翔はその発言に笑った。
「突っ込まないの、そういうとこを。・・・その優しさを間違えないようにね」
樹里も苦笑いを浮かべたが、ふと真顔になって翔に言い放った。
「間違えないようにって」
「認めることは受け入れることなだけであって、それ以上でもそれ以下でもないのよ」
樹里はそう言ってベッドに横になると、頭までタオルケットを被った。
そして暫く眠るわと言ったきりその場は無言に包まれた。
翔はその意味を考えあぐねた。樹里が何を言いたいのか、全く分からないわけでもないが、本質
までもう少しで手が届きそうなのに、必死にもがけばどんどん離れていってしまう気がした。
ただ樹里は自分の内側のドロドロとした感情をどこかで読み取っているのではないかと思う。
それは、翔にとって大人を感じさせるずるさと怖さだった。
結局そのまま樹里の部屋を後にして、下に戻ってくると、桜井は帰り支度をしていた。
「どうだった?」
「寝てしまいました」
「そっか。じゃあ、僕達も帰ろっか」
「はい」
桜井とは店の前で別れた。バイトだった時間が急にぽっかりと空いてしまうと、翔はその空白を
持て余した。このまま真っ直ぐに家に帰る気にもなれないが、行き着けのクラブにはまだ少し早すぎる。
迷った挙句、時間潰しにゲーセンにでも行こうとしたとき、小田南の体操服が目に飛び込んできた。
そして、翔は思わず声をかけてしまった。
「よう、リョウ」
部活帰りらしい。学生服に着替えるのが面倒くさかったのか、ジャージのズボンに体操シャツを着て、
薄暗くなった商店街を、亮太は自転車を押して歩いていた。
「翔・・・?」
亮太は立ち止まって、翔の顔をまじまじと見た。一ヶ月ほど前の朝の光景とその表情はダブって見えた。
「何してんだ?」
「自転車パンクした。そこの角の自転車屋に持っていこうと思って」
翔は亮太の指す方を振り返った。商店街の角の「ゆめさきサイクル」が目に入った。
「翔は?」
「・・・バイトだったけど、臨時休業」
「そう」
そういうと亮太は歩き出す。翔もなんとなく亮太と一緒に歩き出した。どうするわけでもないのに、
こういうとき昔の習性とは哀しいもので、恐ろしいくらい息が合ったようにこの空間を2人だけの
ものにしてしまう。
亮太は翔が付いてくることを何も言わない。それどころか、それが当たり前のような感覚で翔の
隣を歩く。気まずくなることなど分かっているのに、翔はなぜ自分が一緒に歩き出してしまったのか
その理由をつけることが出来ず落ち着かなかった。
自転車屋は顔をしかめて言った。
「うーん、ちょっと混んでるから、あと1時間ぐらいかかるね」
「そうですか・・・困ったな」
「店で待っててもいいけど、座るとこもないしね」
自転車屋のオヤジは店を指差しながら苦笑いした。
「なんだよ、時間潰しなら、付き合えよ」
翔はくっと顎をあげて合図を送る。亮太は困惑した瞳で翔を捕らえた。
「別にとって食ったりしねーよ」
「ああ、うん。別にいいけど・・・」
歯切れの悪い返答が返って来て、翔は自転車屋を後にした。何故こんなことを言ってしまったのか、
自分でも分からなかった。
この年になって、亮太と時間潰しとは言え二人っきりで遊ぶなんて考えたこともなかった。
無言で歩く。一歩後ろを亮太がついてくる。2人の距離、その息遣い、そういった全てが、何も変わって
いないことに翔は驚いた。
変わってしまったのは俺だけなのだろうか。
翔は振り返って亮太を見た。体操シャツにジャージ姿の亮太は一目で学校帰りだと分かってしまう。
「その格好じゃまずいな」
「どこ行く気だ?」
「ゲーセン」
「だったら別にいいだろ」
「よくない。小田南は絡まれる」
「そうなのか?」
「ああ。来いよ、俺の服貸してやるから」
翔はcrazeまで戻った。
裏口は開いており、そこから入って従業員用のロッカーから、置き服を出すと亮太に手渡した。
「お前ってさ、私服どんなん着てる?」
「普通。ジーパンにTシャツ」
「そ。ならこれでもいいだろ・・・。ちょっと小さいかもしれないけど」
手渡したTシャツとアディダスのハーフパンツを手に亮太は翔と服を交互に見比べた。
「着なきゃダメなのか?」
「ごちゃごちゃ言わないで、いいから着替えろよ」
翔はこう言うと絶対に引かないことを亮太は知っているので、素直に諦めて着替えることにする。
着ていた体操シャツを勢いよく脱ぐと、そこには均整の取れた理想の筋肉が輝いていた。
翔は思わず目を見張った。袖の中はこんなに綺麗な筋肉がついていたのだ。鍛え上げた身体は
中学の頃より明らかに逞しくなっている。
あの頃のセンスに今の体力がプラスされているのだ、「超高校級」と騒がれるのも時間の問題だろう。
翔は激しい衝動に駆られた。その肉体を自分の感触で試してみたくなった。亮太がどれだけのものなのか、
自分との差を確かめてみたくなったのだ。
手を伸ばしかけて、止めた。
(俺、何しようとしてんだ・・・)
奥歯をぐっとかみ締めて手を引っ込める。
「何?」
亮太が不思議そうな顔で翔を見た。
「別に、なんでもねーよ。はやく着替えちゃえよ」
「言われなくても、着替えてるだろ」
急激に嫉妬の感情が湧き上がって自分のやっていることが腹立だしくなる。握り締めた拳が亮太の
腹筋をめがけて綺麗に決まった。
「うっ・・・」
咄嗟のことで何が起きたのか理解できなかった亮太は翔に殴られた部分を押さえて呻いた。と同時に翔にも
同じだけかそれ以上の痛みが走る。
「・・・何、すんだ、よ・・・」
「・・・っ!痛てぇ・・・」
殴られた腹筋よりも殴った拳の方が明らかに痛そうだった。翔は殴った右手の拳を左手で庇う。ひりひり
とした感覚が手から腕の付け根まで到達して、右手全体が痺れた。
「お前の腹は超合金かっ」
「なんだ、それ。いきなり殴りやがって、何だよ」
「ちゃんと鍛えてるのか、試してやったんだよ」
「そんな試し方あるかよ」
亮太は腹部を摩っていたが、さほど痛みは感じていないらしい。呼吸を整えると先ほどと変わらぬ顔に戻る。
そして、さっさとTシャツに着替えてしまった。
翔の不可解な行動に些か不機嫌だったが、翔はもっと不機嫌だった。
(足元すくわれたことなんて、きっとないんだろう・・・)
翔は衝動的に亮太を貶めしたくなる。球場帰りに野球部員に囲まれた時の自分のように。亮太にも
同じ感覚を味あわせたくなった。
それは微かに甘い感覚だった。亮太の苦痛に歪む顔を翔は探していた。
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