☆special―俺の橋をこえてゆけ―4




取り残された僕はしばらく動けなかった。米粒になっていく板橋の後ろ姿を恨みがましく 眺めるのが精一杯で、この場からどこに向かって逃げればいいのか全く見当がつかな かった。
「あー、逃げちゃった」
梨香が僕の方に歩み寄った。身体中に力が篭もり、顔も緊張で強ばっている僕に対して、 梨香は柔らかい笑顔で僕に微笑みかけている。それが板橋に対する「慣れ」の余裕に見え て余計に僕の身体は硬直した。
「驚かせてごめんなさいね。えっと小島さんだっけ」
「あ、はい……」
「ちょっとお話しませんか?」
「はい……」



僕は近くの自販機でコーヒーを二本買うと、梨香の座っているベンチへと向かった。
「どうぞ」
「ありがとう。小島さんも座って?」
「はい…」
僕は梨香と少し距離をあけて座った。
梨香は栗色にカラーリングした髪をなびかせて、明石海峡大橋を見上げている。さっき までの柔らかいイメージから急に聡明な顔に切り替わったような気がした。
「小島さんは、カケルの同級生?」
「いえ、僕の方が3つ上です」
「え!?私より上……。ごめんなさい、カケルと同い年だと思って」
「あはは、いいですよ。慣れてますから」
童顔だと言われ続けて、それでも最近は20代半ばに見られることも増えてはきたけど、 板橋といれば、大抵同級生に間違われる。
態度のでかい板橋との掛け合いを見ていたらなおのことだ。
「カケルってば年上の方にこんなことして……相変わらずだわ」
「ホントに相変わらずです」
僕たちは漸く共通項でクスリと笑い合えた。
「もう7年くらい前になるのかな」
梨香は橋を見上げたまま、ぽつりぽつりと語りだした。細身だけれど胸の谷間がくっきりと 見える体型は僕とは程遠く、眩しかった。
「カケルが高校1年で私が3年だったの」
僕より一つ下ということか。僕は梨香の横顔をこそっと見た。
「どこがどうなって惹かれたのかさっぱりわからないんだけど、悔しいことに告白した のは私だったのよね」
「つまり、湯川さんは板橋の……」
「元カノってヤツです」
ああ、ビンゴ。
梨香は懐かしそうに笑ってみせた。目の前にいる男が今の恋人とは思いもつかないだろう ことに僕は半分ホッとして、そして少しだけ嫉妬した。
「2年くらいは付き合ったんだけどね。大学生と高校生の恋愛って本当に上手くいかないの ね。遠距離もあって、自然消滅的な感じで冷めていっちゃった」
「凄くわかるような。板橋って来るもの拒まず、去る者追わずみたいなところあるもんね」
「そう!そうなの。さすがこんなところまでついてくるお友達のことだけあるわ」
「僕は単なるお人好しだけどね」
梨香は僕の顔を覗き込んで、ふふっと笑った。柔らかな笑がキュートだと僕は素直に思った。
「お人好しの小島さんになら話しても罪にはならないと思うから、暴露しちゃうけどね。 このままじゃ次の恋にも進めないし、きっぱり終わりにしようと思って覚悟を決めて会った 日に、あの子ったらもう次の彼女がいたのよ。ありえないでしょ?!カケルにしてみれば 2ヶ月も音信不通になったからもう終わったんだと思ったらしいんだけど」
その適当加減は板橋らしいけど、僕が驚くのはそんなにホイホイと彼女が出来るってことだ。 自分から告白なんて殆どしたことないって聞いたことがあるから、板橋は多分モテるんだろう。
世界の七不思議にカウントしてもいいくらい不思議で不気味な現象だ。
「だからね、あたし言ってやったの。今回は素直に振られてあげるって。その変わり私が 結婚したら跪いて悔しがりなさいよって」
「あ……」
それがさっきの行動の意味だったらしい。悔しがっていたかは微妙だけど。
「まさか本当にやるとは思わなかったわ。絶対嫌、絶対しないって豪語してたのに。カケル ちょっと変わったね」
「そうなのかな」
「うん。高校の頃のカケルってもっと無機質な感じがしてた。人間の形はしてるし、感情も それなりに持ち合わせているのに、根本的なところが冷たいというかね、自分は自分、他人 は他人ってはっきりした線引きがあって、自分のにメリットがあればとことんやるくせに 自分に関係ないことは1ミリもやらない。だから余計に跪かせたかったのよね」
その表現に僕は違和感を持つ。板橋は面倒くさがりやだし、愛情表現に重大な欠点がある とは思うけど、冷たい人間じゃない。僕がそう思うというなら、やっぱり板橋がこの数年 のうちに変わったということなんだろうか。
「大人になったってことじゃない?」
「そうかな。カケルって大人になっても変わらないと思ってたから、誰かがカケルを 変えたんだと思うな。小島くん、知らない?カケルって恋人とかいるのかしら」
僕は心臓がぐりっとえぐられるように痛くなって、思わず自分が恋人だと言ってしまいそう になったけれど、ギリギリのところで飲み込んだ。
「多分いると思うよ。でも板橋って秘密主義だから」
「分かるぅ。聞くと教えてくれないのよね」
「適当に答えるからいつも答えが違うんだよ」
その辺りは変わってないわねと梨香が小さく呟いた。とても穏やかな表情だった。
梨香から、未練とは違う板橋への愛情が伝わってくる。
お母さんみたいだ。……それじゃあ、ちょっと失礼か。
梨香は困った子どもの暴露話をするように話した。
「そのくせ、え?今?!っていう時にびっくりする告白するよね」
「そうそう。板橋あるあるだ」
あはは、と声に出して笑うと心の枷が少し軽くなった気がした。
「けど、やっぱり醸し出してるオーラが変わった気がする。再開した瞬間、あれ?って 思ったもん。誰の影響なのかわからないけど、カケルにとってはいい方向に変わったと 思うわ。ちょっと悔しい。なんで私の時からああなっててくれなかったのかしら」
「そしたら別れなかった?」
「それはわからないけどね」
梨香はうふふと笑う。君が別れてくれなければ、僕は板橋と会えないことになってしまう んだから、なにがなんでも別れててもらわなくちゃならないんだけど。
本当のことが言えなくてごめんねと心の中で手を合わせて僕も笑った。
「やっぱり今日会えてよかった」
「結婚するんですか。おめでとうございます」
「ありがとうございます。……大学の時から付き合ってる人なの。優しくて空気も読めて 橋オタクでもない素敵な人」
「幸せそうですね」
「今幸せじゃなかったら、この先不幸すぎるもの」
梨香の幸せに対抗して、僕も板橋を幸せにするよって言いたくなったけど、やっぱり最後の 一線が越えられず、僕は心の中だけで呟く。
周りから素直に祝福されるような恋ではないことは初めから分かっているんだ。こんな ことで一々傷ついている年でもない。
「板橋はこんな素敵な女性を捨てるなんてホントもったいないな」
「ふふ、ありがとう。カケルに聞かせたいわ」
それから僕たちは、板橋の昔話で盛り上がった。そして日が陰り始めた頃に漸く板橋は 帰ってきた。



「梨香さん、まだいたの」
「小島さんと有意義な時間過ごさせてもらったのよ」
板橋は返事をする代わりに溜息を吐いた。
「お帰り。楽しかった?」
「まあな。天辺から見る景色は極上だよ」
「天辺?」
「カケルたち、多分あの上に登っていたのよ」
梨香が指を差す方向を見上げると、明石海峡大橋の巨大な支柱が目に入った。
「あの上って……橋!?」
「そう。ブリッジワールドっていう企画で、主塔の上まで登れるんだ」
僕は海面300mあるらしい主塔の天辺を見上げて頭がくらくらした。橋オタクがそろいも そろってあそこに登っていたのか。
満足気に語る板橋に僕もそして梨香も苦笑いした。
「変わらないでしょ」
「ホントね」
僕たちが意気投合していることに板橋が怪訝な顔をする。そりゃあ板橋にしてみれば昔 の恋人と今の恋人が仲良く話してるんだ、怪訝な顔にもなるだろう。
「はいはい、なんとでもどうぞ。直哉、マスターが店で待ってるからあんたもつれて来い ってさ」
「私もあとでおじさんにお礼言っておかなきゃ。じゃあ、私はこれで帰るわ。小島さん、 ありがとう。楽しかった。カケル、じゃあね。あ、どうせなら結婚式に来て跪いて行って もいいわよ」
「俺を結婚式に呼んだら、昔患った恥ずかしい病名を全部暴露してくよ」
「言うわねー。みんなの前で跪くカケルはレアだけど、それは勘弁だから、もう二度と 会わないでおくわ」
ひらひらと手を振って梨香は去っていった。
「あんたたち、何話してたの」
「板橋の思い出を共有してた」
「あんたがそういう顔してる時は、大体良くないときだ。……まあいいや。俺たちも行こう」
「うん」
歩き出した板橋の後ろ姿を眺めながら、ふとさっきの板橋の言葉を思い出す。梨香の患った 恥ずかしい病名ってなんだろう。もしかして……
僕はかつて板橋がアナルセックス経験者で、その時に膀胱炎と尿道炎にかかったという話 を思い出していた。
もしかして、その彼女というのが梨香なのかな。下世話なことを考えていた僕ははっと 我に返って首を振った。
すべては昔のことだ。



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