なかったことにしてください  memo  work  clap
韋駄天ラバーズおかわり



 8月の熱い日差しが真野のアパートの窓から降り注いでいた。
亜希はそれをぼんやりと眺めながら、この空間に自分がいることを不思議に思っていた。
真野と知り合って、ダイエットが縁で、紆余曲折あって付き合うことになった・・・・・・いや、
55キロまで痩せたらきっちり惚れてやるという確約を得て、それからは、友人の延長のような
恋人のような微妙な関係が続いている。
 真野が気紛れでしてくるキスを毎回ドキドキしながら受けて、抱きしめられると、嬉しくて
なのにやっぱり2人でいるとくだらないことで言い合いになって、あの頃から変わっている
ようで、変わらないまま4年近く経っていた。
 唯一つ変わったことといえば、亜希の体形を、もう誰もデブとは言わなくなったことだ。
ゴールは直ぐ目の前。これでダイエットの長い長い旅も終わる・・・・・・はずだ。
 亜希はこの日が近づいてくると、何故だかそわそわして落ち着かなくなっていた。
その理由は自分でもよーくわかっている。真野のあの視線だ。あれの所為で、亜希は自分が
このまま55キロまで痩せてしまっていいのか、分からなくなってしまったのだ。
 あの視線・・・・・・自分を見詰める、あの・・・・・・。
「・・・で、いつになったら、お前はやらしてくれるわけ?」
向かい合わせに座って、自分の考えに心を奪われていた亜希は、真野の突然の切り替えしに、
口に含んでいたアイスティーをぶほっと吹き出した。
 文字通り、ぶほっと出して、真野の白いTシャツにもブラウンのシミが点々と撥ねた。
「汚い」
「ま、真野が突然変なこと言うから!」
「亜希がいつまで経っても55キロまで減らないからだろ。お前さ、3週間前に55.2になった
とか言ってたけど、あれからずっと『まだ』『あとちょっと』じゃん。ここまで来て、なんで
あと200グラムが減らないんだ?」
真野は強い視線で亜希を見つめる。その瞳の奥がいやらしく笑っていることを亜希も知って
いるから、頬を赤くして、思いっきり顔を逸らすしかないのだ。
「そんなの、俺が知るかよ!俺だって、あと200位スカッと痩せたいよ!」
僅かに動揺したところを真野は見逃さなかった。声が上ずった亜希の横顔をニヤけそうに
なる気持ちを抑えて、真野が言う。
「亜希」
「なんだ、よ・・・」
「お前、本気で痩せる気あるのか?」
「ほ、本気だって・・・」
「じゃあなんで、今まであんだけ喚きながらがんばってきたお前が、なんでここに来て3週間
1グラムも減ってないんだ?」
「そ、そういう時だって・・・あるだろ」
「目の前にゴールが見えてるのに?」
「・・・・・・うん」
「ふうん?」
真野の見透かしたような視線が痛い。いや、きっと見透かされていて、亜希は試されている
ことくらい、肌で感じているのだけれど、それを認めるわけにはいかなかった。
「なんだよ!」
「お前、本当は怖いんだろ」
「何が?!」
「俺に惚れられるのが」
「ば、馬鹿っじゃないの!?俺は、4年前から言ってるだろ!55キロまで痩せて、お前に
惚れさせて、そんでもってギッタンギッタンのメッタメタに振ってやるって!」
「お前はそんな崇高な目標があるのに、なんで足踏みしてんの?」
「・・・・・・」
真野は立ち上がると、わざと亜希の隣に座って腰を引き寄せる。それから、亜希の耳元に
唇を近づけると噛み付くように囁いた。
「だから、怖いんだろ?」
「何にも怖く・・・・・・」
「俺が亜希に惚れて、その後どうなるか」
「・・・・・・」
「セックスが、怖いんだろ」
「!!?」
毛穴がきゅうと音を立てて閉じて、全身の毛が全て立ち上がったような気分だった。
「ぜ、全然!馬鹿じゃないの!?なんで、俺が怖がらなくちゃいけないんだよ!!」
「そう?なんか、急にダイエットの意気込み萎んじゃってさ、怖気づいてんのかと思って
たんだけど」
「怖気づくって・・・」
耳元が切れるように熱い。なんでコイツは自分が必死に隠していることを簡単に見破って
いくんだ、とドクドクする心拍数を悟られないように、亜希は身体を縮めた。
「お前さ、この手の話になると急にこうやって固まるもんな」
真野は亜希の反応が面白くて、腰に回した腕に力を入れた。
「俺は、別に!」
「怖くない?」
「当たり前だろ!!」
「じゃあ、試してみる?」
「え、あ・・・?」
「怖くないなら、試せるだろ」
「試すって、何を」
「何って、セックス。やれるんだろ?あ、それともやっぱり出来ない?」
ニヤニヤと笑った声が耳の奥でこだました。
 真野の挑発が上手いのか、亜希の思考回路が単純なのか、亜希の低い沸点はあっという
間に湧き上がって、思わず叫んでいた。
「わっ、わかったよ!やればいいんだろ!」
こんな簡単な罠にもあっという間に引っかかってしまうのは、亜希がそれだけテンパってる
ということなのだろう。何かが間違ってると分かるのは、後になってからだ。
 売り言葉に買い言葉。亜希は何が何だか分からないうちに、真野と試しにセックスする
はめになってしまったのだ。





 つるりと、頬を撫でられて、亜希はわさわさとする身体を押さえ込んだ。けれど真野の手は
止まるところを知らず、亜希のTシャツの中を動き回り、ぷくんと飛び出した小さな突起を
くりっと手の腹で撫でた。
「なっ!?」
「・・・もっと色気のある声出せよ」
「!?」
真野は乳首を捏ねていた手を止めると、今度は亜希のジーパンに手を掛けた。
「ええっ・・・ちょっと、ま、待って・・・真野っ!」
「黙ってろって」
喚く亜希に真野は噛み付くようなキスをした。口の中をテロテロにされて、亜希は背中の
一番抜けちゃいけない力が骨抜きにされた気分だった。
「は、ふっ・・・」
真野は亜希のジッパーを下ろすと、すかさずその中で硬くなり始めているものに手を伸ばした。
「ひ、ひゃぁ」
「色気ないなあ」
「そんな・・・はむぅ!!な、あっ、やぁ〜〜!!」
生まれてこの方、これが目的で触られたことなど一度もない亜希にとって、それは目の前が
スパークするほどの衝撃だった。
「気持ちいいんだろ?」
「〜〜〜〜!!」
気持ち良い前に、亜希の頭の中は大混乱だ。突然引越しが決まったじいちゃんとばあちゃん
が、無駄に一階と二階を行ったり来たりしてるくらいパニックになっていた。
 二階から転落したら、ばあちゃん骨折っちゃうよ!
亜希は訳の分からない感想が思わず口から飛び出す。
「亜希?」
「ま、真野!待って、待って!!」
「何だよ」
真野が亜希のモノから手を離した隙に、亜希は起き上がるとベッドから逃げ出した。
「む、無理!絶対無理!そんなの・・・・・・出来るわけ、ないじゃん!!」
「逃げるなって」
「だ、だって!!」
「来いよ」
真野も立ち上がって、亜希ににじり寄る。亜希は更に壁際に逃げた。
「無理!」
「亜希」
少し不機嫌になった真野の声が亜希の名前を呼ぶと、亜希は思わず叫んでいた。
「お、俺は・・・!まだ、55キロまで痩せてないから、お前に、大事な身体をあげるわけには
いかないんだ!!」
「いつ痩せるんだ」
「そ、そのうち!」
「お前は、会うたび会うたび、そのうちって」
「じゃあ、55キロに痩せるまで真野には会わない!」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
言ってからお互い見詰め合って沈黙。真野の伸ばしかけた手も亜希を掴まえる寸前で固まって
いる。時間が止まってしまったような感覚で、亜希は息をするのも忘れた。
「ふうん」
先に動いたのは真野で、真野は伸ばしかけた腕を組んで亜希を見下ろした。
「な、んだ、よ・・・」
「わかった。痩せるまでうちに来るな」
「う・・・ん・・・・・・」
「あ、それから、俺明日から部活の合宿行くから、3週間いないからな」
「ええ?!」
そういう大事なことはもっと早くに言えと、叫びたい気持ちだったけれど、この空気の中
では流石に亜希も言えなかった。





亜希は安堵と敗北感を背負って真野のアパートを後にした。
「亜希は何回予行演習やれば本番が出来るんだか・・・・・・」
帰り際に、真野の呟いた台詞の意味が分からなかったけど、そんな小さなことにこだわって
いられなかった。
 痩せるまで家に来るな・・・・・・痩せたら会いに行けばいい。けれど、痩せたらそれは、そう
いう結果が待っているということで・・・・・・。
「あああ!!!無理!無理!俺と真野が、あんなこと・・・・・・無理〜〜〜」
きゃあ、恥ずかしい〜。
亜希は顔を手で隠して、乙女宜しく走り出した。
そんな姿を見られている方が恥ずかしいのはこの際忘れてあげて、亜希は商店街をピンクの
オーラを振りまきながら走り抜けた。





「ミサちゃん、ミサちゃん、ミサちゃ〜ん!」
美咲の部屋に名前を呼びながら駆け込むと、美咲が呆れた顔して読んでいた雑誌から目を
あげた。
「・・・・・・ちょっと、亜希ちゃん。私、ドラちゃんじゃないのよ!」
「ミサちゃん?」
「帰ってくるなり、泣きついてこないでよ」
美咲は亜希の顔を見て盛大に溜息をついた。
「だって・・・」
「色ボケ大学生が、また乙女のハートを振り回されてるのね」
「ええ?」
「・・・・・・はいはい、まあいいから。汗拭いて、お茶飲みなって」
亜希は今も、相変わらず美咲の部屋でガールズトークに花を咲かせていた。
 亜希がダイエットを始めてから4年。見違えるような容姿になっても、中身は4年前と何
一つ変わっていない。
「ミサちゃん、あいつ明日から合宿で3週間もいないって知ってた?」
「知らないわよ。同じ大学だからって、何もかも知ってるわけ無いでしょ。それに真野君
のことなら、亜希ちゃんの方がずっと把握してるでしょ」
「そうでもないよ・・・・・・俺、あいつの考えてること全然わかんないし」
亜希は美咲に出してもらったお茶を一気に飲み干すと汗を掻いたコップをテーブルの上に
置いた。
 1年半前。亜希も美咲も真野も、晴れて大学生になった。けれど、他の教科が体育の成績
と大して変わらないような成績の持ち主だった亜希は、有名私立にスポーツ推薦で余裕
合格の真野と一緒の大学に通えるわけもなく、亜希はその私立大学に一番近いというだけ
で今の大学を選んだ。
 美咲は偶然にも真野と同じ大学になり、亜希は美咲に会いに来るというカモフラージュ
を得て、週に3回はキャンパスを練り歩いている。
 真野や美咲の周りでは、亜希がこの大学の学生だと思い込んでいる人間すらいるくらいだ。
「で、今度はなんなのよ?」
汗と共にデロデロに溶け掛かっている亜希に美咲はわざとらしく溜息をついた。
「・・・・・・うん」
とりあえず泣きついてみたのはいいけれど、こんなことどうやっても美咲になんて話せる
訳が無い。後先考えず突っ込んでいくのは相変わらずだ。
「なによー。また亜希ちゃんのウジウジ虫?」
「だって・・・・・・」
「言っておくけどね、私の周りの子、みんな亜希ちゃんと付き合ってるのは真野君じゃなく
て私だと思ってるのよ」
「ミサちゃん?」
「それだけでも十分被害被ってるって言うのに、ウチまで来てウジウジしないでよね。
いい加減鬱陶しいわよ。・・・・・・まあ、昔の暑苦しさは減ったけど」
「ミサちゃん、辛口だね」
亜希はテーブルに頬をくっつけたまま、美咲を見上げた。
 確か美咲の彼氏は年上で、亜希と歩いていると勘違いされるから困ると冗談っぽく言われた
ことがあった。勿論そんなことで、亜希と美咲の友情にひびが入ることは無いのだけれど。
「辛口なのは昔からよ。暑いからイライラしちゃうけどね」
エアコンが苦手という美咲の部屋は、けして快適な空間ではない。扇風機の風が生ぬるい空気
を運んできて、亜希の髪の毛を揺らした。
 ふう、と一息。亜希はテーブルから顔を上げて、美咲を振り返った。
「ミサちゃん・・・」
「なあに」
「俺さー、55キロになるまで真野に会わないって言っちゃって・・・・・・」
その台詞を聞いて、美咲は目を丸くして亜希を見詰め返していた。



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