なかったことにしてください  memo  work  clap
Re:不在届け預かってます


 Re:どうしたの?




 仕事が終わって帰る足が、自然といつものマンションに向かっていたことに気づいて、
智優は慌てて向きを変えた。
 今日も狭山のアパートに世話になるつもりだ。
あれから既に5日ほど、智優は狭山のところで寝泊りを繰り返している。その間に不便が
あると困るからと、携帯の電話番号とメールアドレスだけは交換した。アパートの鍵まで
渡されそうになったが、流石にそれは固辞した。
「こんばんは」
「お帰り」
ちぐはぐな挨拶は、お互いの微妙な距離の表れだと思うが、智優はそれに目を瞑った。狭山
は誠実な男の様にも見えるし、得体の知れない不気味さも持ち合わせていた。
 話を聞くと、狭山は智優よりも3つ年上で、仕事は銀行関係の営業だと言う。銀行の営業
マンがどれだけのものか智優には分からないけれど、智優には、狭山の語る仕事の話が
胡散臭く聞こえて、その辺りから、微かな違和感は覚えていた。
 更に胡散臭いのは、狭山は羽振りがいいくせに、けして高級ではないアパートに住んで
いることだ。あれから狭山と2度呑みに行ったが、2度とも智優の静止を振り切って、勘定
を済ませ、その後、アパートにタクシーを着けたとき、狭山の長財布から覗いたカードは、
ゴールドの上を行くものだったのだ。
 金持ちのボンボンが親不孝でもしているのかも知れないと、智優は無理無理、理由を
つけて、敢て突っ込むことは止めた。
 狭山の事情を知る必要などない。自分の人生にすれ違っていくだけの人間だ。
智優は、客らしく玄関で靴を揃え、狭山の後に続いてリビングに入った。智優のスーツ
ケースは部屋の隅に置かれ、智優は必要最低限の物以外は綺麗に仕舞っていた。
 ここに長居するつもりはない。恋愛の事を考えることなく過ごせる時間は有難かった
けれど、いつまでもふわふわと浮いた心が、傷つくことも、落ち着くことも出来ないまま、
空中分解してしまいそうになる居心地の悪さがあった。
 智優は手にしたコンビニの袋をローテーブルの上に置くと、狭山に借りたハンガーに
スーツを掛けた。自分の持ち物は、スーツと歯ブラシ以外は全部スーツケースの中だと、
智優は旅行に出かけたときのように、常に気を張っていた。
「すんませ、ご飯食べさせてもらいます」
「ああ、こっちこそごめんね、先に食べちゃったから」
狭山がいつ仕事から帰って来たのか分からない。しかし、智優が9時に帰ろうが、7時に
帰ろうが、狭山はいつも既に帰宅していて、智優の帰りを涼しい顔で迎えるのだ。
 智優はコンビニの弁当を開けた。
「ビール、一緒にいい?」
「・・・・・・どうぞ、あ、でも気使わないでくださいよ」
「ううん、呑みたい気分だったから、丁度いいよ」
狭山は冷蔵庫から2本、缶ビールを取り出してきて、1本を智優の前に置いた。
「智優君もどうぞ」
「・・・あ、頂きます」
2人で缶を合わせ、乾杯をすると、智優は弁当の唐揚げをビールで流し込んだ。





 気がつくと、コンビニ弁当の空パックは片付けられ、その代わりテーブルの上には缶
ビールがいくつも並んでいた。
 狭山といるとついつい深酒をしてしまう。狭山はもう一缶智優に差し出すと、自分の分も
2,3度手の中で回して、プルトップを小気味よい音を立てて開けた。
「もう、無理っすよ」
智優は顔を擦りながら、差し出されたビールを付き返した。
「じゃあ、これ半分ずつで、終わり!」
狭山はかなりハイなテンションで智優用にコップを持ってくると、飲み掛けのビールを
注いで差し出した。
「・・・・・・」
「ねえ」
「はぃ・・・・・・」
「乾杯!」
「か、んぱい・・・・・・」
智優はフラフラな手でグラスを持ち上げた。相当酔いは回っている。狭山はそんな智優の
様子を面白そうに眺めて言った。
「ねえ?」
「はぁい・・・」
「智優君はさ、恋人と別れたって言ってたけど・・・」
「はぁい?」
ろれつの怪しい返事をすると、狭山は瞳の奥をギラリと光らせる。別れ話は、初めに呑んだ
夜以来、狭山には一言もしゃべっていない。蛍琉の事を極力思い出さないようにして、
心の奥底に沈めていたのだ。
 そんな智優の気持ちなど知らないように、狭山は触れられたくない傷を覗いてくる。
「智優君は、どっちだったの?」
頬杖を付いて、ねっとりとした視線を送られて、智優は妙な胸騒ぎを感じた。
「どっち・・・・・・?」
「やだなあ、智優君、忘れたの?」
「はあ・・・・・・」
おもむろに狭山を見詰める智優に、狭山はニタリと笑った。
「俺、智優君見つけたの、『いっちゃん』トコだって言ったでしょ」
『いっちゃん』とは蛍琉のゲイ仲間でゲイバーのマスターだ。そのことをぼんやりと思い
出して、智優ははっとした。
 この男は、過去に相手をした人間と同類・・・・・・。
智優の瞳が一気に落ちた。
「・・・・・・狭山さん、ゲイ?」
「そうかもしれないね」
「狭山さん、初めから、そのつもりだった?」
「まさか」
軽く笑って流すくせに、瞳の奥はけして笑っていなかった。
 流される、そう思ったときは遅かった。
アルコールでグダグダにされた脳みそは身体の能力まで停止させてしまったらしい。逃げる
ことも出来ないまま、智優は狭山に腕を掴まれた。
 拒否すべきことは十分に分かっている。
「・・・・・・そういう、気分じゃ、ない・・・・・・」
「いいよ、智優君だけでも」
急激に甘くなった声に、びりびりと痺れ出し、智優は過呼吸気味になりながら、片手で
狭山の胸を突き返す。
 迂闊だった。相手は初めから正体を見せていたというのに、そのサインを智優は見過ご
していたのだ。
 過去、智優は何人かの男に身体を開いた。勿論それは蛍琉と「別れた」時の話で、怒り
の矛先を性欲に摩り替えて、憂さ晴らししていた節もある。
 貞操観念が強いわけではないし、蛍琉と付き合っているときは浮気はしないと心に決めて
いるが、そういう縛りがなければ、智優は気ままだ。
 挑発したときもあるし、流されてさして好みではない男と寝てしまったこともある。
けれど、それも含め誰と寝ようが、自分の責任だと智優は思っていた。
 智優はその過去を後悔などしていない。蛍琉に語ることはできない事実でも、自分を
慰めるための正当な方法として、素直に受け入れてきた。
 でも、狭山は違う。不意打ちで、ゲイを思い知らされ、行き場をなくした状態で、迫られる
なんて、智優の流儀じゃない。
「ギブアンドテイク。ほら、家、貸してあげたでしょ」
耳元で囁く狭山は、出会って数日、一度も見たことのない顔だった。
「いや、だ・・・・・・そんな気分じゃ、ないんだ、ホントに」
智優は首を振る。それだけで頭がぐわんぐわんと揺れ、今にも意識が飛んでいきそうになる。
「別に、こっちまで戴こうなんて、思ってないよ。智優君はただ気持ちよくなっていれば
いいんだよ?」
次の瞬間、狭山の右手は智優の股間に伸びていた。
「はぅ」
「酔っ払ってても、ちゃんと感じるんだね」
「・・・・・・俺はっ」
「うんうん、分かってる。智優君が抜けたら止めるから」
「なんでっ・・・あっ」
「智優君が、気持ちよさそうにしてる顔が見たいだけなの、俺」
「そんな、こと・・・」
「一人で抜いたと思えばいいよ。溜ってるでしょ」
ニコリと笑った狭山のその言葉に、最後は押し流された。
 智優は抵抗を止めて、狭山の手の中に落ちていった。





 先にシャワーを借りて、部屋に戻ってくると、智優はずぶずぶとベッド埋もれた。
流された自己嫌悪と、まあいいかという諦めが入り混じった。狭山は智優を手でいかせた
後は、本当にそれ以上何もしなかった。綺麗に処理して、ふらつく智優を風呂場に連れて
いくと、智優に一人でシャワーを浴びるように言って消えた。
 そして、智優が出てくると、入れ替わるように風呂に入ってしまったのだ。
「疲れてるでしょ?先に寝ていいよ」
そういい残して。
 智優はベッドに埋もれながら、半分眠っていた。片目は完全に閉じている。もう一つの
瞳がぼんやりと部屋を眺めていた。
 時計は12時か1時か、随分飲んでいたようだ。部屋に似つかわない赤のデザインの椅子。
あれは、チャールズ&レイ・イームズのものか、それのコピー品か。智優は回らない頭で
そんなことを思った。けして隅々まで奇麗ではない部屋は、いかにも男の一人暮らしの様
ではあったが、自分の趣味にマッチしたものが一点あるだけで、親近感を覚えてしまう。
智優は見栄っ張りで、外面ばかり良いから、男のデザインなんて響きだけですぐに興味を
そそられてしまうのだ。
 明日になったら、あの椅子の話でも聞いてみよう、もう少し狭山を知れば、この行為も
許せるかもしれないと、悠長なことを思った。
 だから今日はもう寝てしまおう、そう決めて最後に目を遣ったのはテレビボードの下。
風呂から上がって、智優が蹴っ飛ばしてしまったのは本の山で、それが雪崩を起こして
いた。拾うのも面倒くさいが、一応綺麗に積み重ねてあったものだ。智優は顔をあげた。
 そして、その本の雪崩の中から、飛び出してきた写真に気づいた。
身体が半分見えている。顔の部分は雪崩を起こした本に隠れて見えないけれど、どこかで
見たことのある服だった。
「・・・・・・?」
智優はベッドから身体を転げ落として、その写真に近づいた。
 すうっと引っ張ると、写真はその1枚だけではなかった。30枚ほどそこにあることに気づく。
「・・・・・・」
智優は写真を目にした途端固まった。
「な、んだ、これ・・・・・・」
見たことある服に決まっている。まがいもなく、これは智優自身の服で、そこに写っていた
のは智優そのものだったからだ。
 智優は慌てて他の写真を引っ張り出した。
「・・・・・・くそっ!!」
背筋が寒くなるとはこういうことだ。引っ張り出した写真は、日にちも時間もばらばらな
智優の写真だったのだ。
 智優が一人で歩いているのもあれば、蛍琉と笑いながら肩を寄せて話している写真もある。
こんなところで、蛍琉の笑い顔を見るなんて何の因果だと、智優は顔を歪めた。
 冬の景色の写真から、つい最近のまである。どれもこれも、撮られた覚えのないものだ。
狙われていたということか。智優の顔が硬直した。
酔いは一気に醒めた。二日酔いに似た感覚に襲われる。それでも、蹲っている暇はない。
智優はわき腹がきりきりと痛むのを押さえて、部屋中を見渡した。
 ハンガーに掛かっているのはスーツ。洗濯物は全部袋に入れてある。智優は雪崩を起した
本を丁寧に直すと、急いでスーツケースをあけた。
 それから、スーツと洗濯物を詰め込んで、蓋をした。
逃げるしかない。ともかく、ここから一秒でも早く。
智優は風呂場からシャワーの音が聞こえてるのを確認すると、手早くスーツケースを
玄関に運んだ。
 靴を履こうとして、洗面所に歯ブラシが置いてあることを思い出す。置いていこうかとも
思ったが、何に使われるか怖くなって、平然を装って洗面所に向かった。
 智優の足音に気づいたのか、シャワーを止めて、中から狭山の声が聞こえた。
「・・・・・・智優君〜?」
「あ、すんませーん、歯、磨きたくて」
「そう〜」
それだけ言うと、狭山は再びシャワーを流した。
 バクバクとする心臓を押さえ、智優はポケットに歯ブラシをねじ込んで、玄関まで来ると
靴を履いて、一気に外に飛び出した。
 玄関を出たら、スーツケースを押しながらダッシュで大通りまで出た。
逃げなきゃ、逃げなきゃ・・・・・・あの男から逃げなきゃ・・・・・・!
智優は唇をブルブル震わせながら走る。
「あの、ティッシュ・・・・・・!」
走る途中、智優がいかされた時に、狭山に丁寧に精液をふき取られたティッシュの事を
思い出して、智優は頭を掻き毟った。
 あれを回収してくるべきだった。何に使われるか分かったもんじゃない。
「クソ・・・!クソ!!」
こみ上げてくる怒りと恐怖で智優の心臓はギシギシと潰れそうな音がした。
 やり場のない思いで揺れていると、ポケットの中の携帯が震えて、智優は大袈裟に驚いて
液晶に目を遣った。





from:狭山亨
sub:どうしたの?
  智優君?
突然出てっちゃったみたいだけど・・・?





 相手は狭山だった。まだ、自分のしていたことを智優が気づいてないと思っているのか、
狭山のメールは普段と変わりなかった。
 狭山はどんな気分で智優とこんな会話を繰り返していたのだろう。くもの糸に絡まった
獲物にニコリと手を差し伸べて、善人ぶって、腹の底では笑っていたのだろうか。
この暢気なメールに心底腹が立って、そして自分のした馬鹿な行為にも腹が立って、余りの
悔しさに涙が出た。
 何でメールアドレスなんて教えてしまったんだろう。なんで、なんで・・・!
智優は得体の知れない恐怖を背中に感じながら、夜の闇を走り抜けて行った。





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