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Re:不在届け預かってます


 Re:捨ててきた




 珍しく、智優は仕事帰りに駅前の商店街を歩いていた。仕事が早く片付いたわけでも、
特別用事があったわけでもないのだが、どうにも残業をする気分になれず、6時になると、
至急のものだけ処理して退社してしまったのだ。
 そういう気分だったとしか、理由をつけることが出来ないのだが、智優は夕暮れの中を
不思議な気分で歩いていた。いつもはシャッターも閉まって真っ暗な商店街が、まだ活気
に包まれている。別の世界を歩いているようだった。
 智優は行き着けのシューズショップにふらりと入って、2,3足物色したあと、商店街
の真ん中に建つ4階建ての老舗の本屋でビジネス雑誌を買った。
 客の多さに驚きながら、人の波を掻き分けて外に出る。ひんやりとした風が心地よく、
夏に向かっていく春の名残を感じた。
 智優はいつもよりゆったりとした歩幅で歩き、商店街を物珍しそうに見ていた。
「あ・・・・・・」
智優は商店街を抜けきる手前で思わず声を上げた。
 見ればそこは、蛍琉の店で、ショーウィンドウには幾つもギターが飾られていた。他の
商店よりも一段と明るいディスプレイに照らされて、中の様子も窺える。
 蛍琉の店は1階が楽器店で、2階と3階がライブハウスになっている。楽器店と言っても、
置いてあるものはバンドで使う楽器や機材が殆どで、智優が見ても分かるギターやドラム
の他は何に使うのか分からないボタンの幾つもついた機材が所狭しと置いてあるだけだ。
 ピアノやフルートやトランペットと言った智優でも知っている楽器はひとつもない。自然
に集まってくる客層も、バンドマンばかりで、中は異質な空間に見えた。
 智優は暫く立ち止まって中の様子を見ていた。
入り口から出てきた3人の大学生風の男達を除ける。「ありがとうございました」の声が
二重に響いて、そのうちの一つが蛍琉だと分かった。
 智優はこちら側からしか見えない位置に立って中を覗く。目に飛び込んできたのは、ギター
を拭きながら、客と話している蛍琉の姿だった。
 蛍琉は時々楽器を優しく撫でながら、楽しそうに接客をしている。客は常連のようで、
蛍琉とも随分フランクに話しているように見えた。
 智優には音楽の知識が殆どないから、ギター1本であそこまで熱くなれる蛍琉と客が不思議
でしかたなかった。
 店の外と智優の間にはガラス一枚しか隔てているものはないのに、異次元のように遠く
かけ離れている気がする。この10年、それを淋しいと思わないように過ごしてきた。智優
に智優の領域があるように、蛍琉にも蛍琉の領域がある。交わらないのは仕方のないことだ。
 智優は立ち去ろうと一歩足を進めたところで、またも足が止まった。
蛍琉と客の間にいつの間にか立っていたのは、いつか見た若い男だった。夜中まで蛍琉
と蛍琉の領域で語り合っていた男。智優のマンションに、智優の領域に土足で入り込んだ
男、池山世那。
 世那は別のギターを客に差し出しながら、話に加わっているようだった。3人の談笑がここ
まで聞こえてきそうなほど、蛍琉も世那も笑っていた。
 それから、暫くして客は蛍琉達に軽く手を振って店を出た。智優は身体を逸らしてその
客を避けた。
 店の中では蛍琉と世那が未だに楽しそうにしゃべっている。世那の顔は幸せが零れ落ち
そうになって、その垂れ流された幸せなオーラが蛍琉にも降りかかっているように見えた。
 ああ、彼は本気なんだと、智優は目の裏がチカチカと発光している感覚に襲われる。
「くそっ」
智優は一番見たくないものを見せ付けられた気がして、逃げるようにその場を離れた。





 蛍琉がおかしい。
始めに気づいたのはいつだったか。
ん?あれ?おかしいかも?・・・・・・心の中にある疑問符が次々と重なっていく。
そして、その疑心が確信に変わると、あとは不安が膨れていく一方だった。
「天気悪〜!」
「6月の海なんて、そんなもんだろ」
智優は日本海の薄暗く曇った空を見上げて溜息を吐いた。蛍琉はポケットから取り出した
タバコを咥えて、風を手で除けながらそれに火をつける。鼻を刺激する煙の匂いに智優は
顔を逸らした。
 市内から車を飛ばして、海まで来たのは、やはり蛍琉の気まぐれだった。水曜休みの蛍琉
に、智優が合わせてとった有休の使い道を、蛍琉はいつものように気ままに使った。
 けれど、その中に見え隠れしている暗い影を智優はもう無視することが出来ないで、智優
はタバコを呑む蛍琉の横顔を眉をしかめながら眺めた。
「・・・・・・何?」
「いや」
最初の問いには、首を振る。言葉にしたくない、言葉にすれば壊れてしまうことを智優は
知っている気がするのだ。
 けれど、飲み込んだ気持ちが逆に蛍琉を動揺させた。
「何だよ」
煙を吐きながら、蛍琉は智優を見下ろす。潮風が磯と雨の匂いを運んで、智優は目を瞬か
せた。
 妙な空気だ。重いとも軽いとも区別のつかない間が空いて、2人の隙間に風が吹く。風が
2人の心のベールを揺らして、隠したものをちらつかせた。
 切っ掛けはなんだったのか。智優は蛍琉から視線を外して、どんよりとした海を見た。
蛍琉の無神経さに怒っていたのは自分で、智優の嘘に傷ついていたのは蛍琉だった。
思えばあの頃から、修正してもし切れない溝が少しずつ出来上がっていたのかもしれない。
 長く付き合っているから、何でも分かり合えるなんていうのは嘘だ。10年一緒にいたって
これから先の10年も一緒にいられるとは限らないし、明日崩壊する2人だっている。
 ただ錯覚しているだけだ。今までなんとなく一緒にいられたのだから、これからもきっと
そうなんだと。
 けれど、ひび割れた足元を一度でも見てしまえば、フラフラとその妄想の海に漂って
いることも出来なくなる。
 智優は真一文字に閉じた口をゆっくりと開いた。
「・・・・・・蛍琉」
「何」
タバコの煙が智優の顔に掛かる。蛍琉が智優を見下ろしているのだろう。智優は真っ直ぐ
海を見詰めたまま、続けた。
「蛍琉は・・・・・・」
「う、ん?」
腰を預けていたガードレールから身体を起こす。一段先は砂浜で、テトラポットが並んで
いる。智優はテトラポット目掛けて飛び降りると、漸く蛍琉を振り返った。
「蛍琉、何隠してる?」
「え?」
蛍琉のタバコの灰が漫画みたいにぽろりと落ちた。
 心の中を覗いた方よりも、覗かれた方が遥かに動揺は大きい。蛍琉は「え?」の口のまま
暫く固まっていた。
 やっぱりそうなのかと、智優はその瞬間に全てを悟った。
「・・・・・・もういいよ、蛍琉は嘘が下手だってこと、よく分かったから」
蛍琉はおもむろに顔を逸らせた。何処を見詰めているのか分からない瞳を、智優も追うこと
はしない。ただ、もう結果は見えていた。
「言えよ」
自嘲気味に呟いた台詞に、長い長い間の後で、蛍琉はタバコの煙と一緒に吐き出した。
「・・・・・・好きな人が出来た」
予感していた所為か、衝撃も痛みもなかった。ひょっとしたら、こういうものは数時間後
にじわじわとやってくるものなのかもしれない。
 目の前に突きつけられた事実を事実としてだけ、認識していく。感情が追いつかない智優
の顔は、能面のようだった。
「俺と別れるってこと?」
「ごめん」
蛍琉は泣きそうな顔をして、智優を振り返った。その潔さに、微かな苛立ちが生まれる。
いい訳くらいしろと、拳が震えた。
「ごめん」
もう一度蛍琉は呟くと、ガードレールにタバコを押し付けた。





 帰りの車の中がこんなにも重い空気だったことはない。
 無言のまま、どの道をどうやって帰ってきたのかも記憶がない。ただ、重い足取りで
玄関の扉を開けると、
「俺が出てくから・・・・・・」
蛍琉がぼそっと呟いたのだけは覚えている。
 蛍琉が出て行く。それは当然の事だ。自分の所為で別れることになったのに、出て行かない
訳がない。けれど、こんな残骸ばかりの中に自分が置いていかれるなんて惨め過ぎて、耐え
られなかった。
「・・・・・・いい、俺が出てく」
「でもここ、智優のモノだし」
「出てくのは俺の方が慣れてる!」
智優は半ば切れ気味に言い捨てると、蛍琉を置いて一人寝室へと向かった。
 もう、いい訳もすがる余地もない気がした。蛍琉がそうと決めたことが、ひっくり返った
ことなんてない。自分で店を出すと決めたときも、二人で住むと決めたときも、蛍琉が一度
決めてからは、ただ物事は前にしか進んでいかなかった。そういう力を蛍琉は持っている。
 だから、ここで智優が食い下がっても、それこそ惨めなだけで、蛍琉の気持ちが変わる事
などないのだろうと、智優は思った。
 スーツケースを引っ張り出して、とりあえず必要なものを片っ端から突っ込んだ。いらない
ものは蛍琉が処分すればいい。後のことなんて考える余裕はなかった。
 今は、蛍琉の傍から逃げたかった。
 詰め込めるだけ詰め込んだスーツケースを転がして、リビングに出てくると、蛍琉はダイ
ニングテーブルの前で、呆然として座っていた。
 セブンチェアに身体を乗せて、焦点の合わない瞳は、智優が出てきてもその姿を追う事
はない。
 セブンチェア、ボーナスで買ったやつだ・・・・・・智優はそんなことを思いながら、それでも
出て行くことを選んだ。
「・・・・・・服は、二三日中に取りに来るから。それまでは鍵、持ってるけど、いいだろ?」
「ホントに、智優が出てくの?」
「・・・・・・そうだよ。あとのものは、好きにして」
「好きにって」
蛍琉の受け答えに智優は苛立った。
智優は開けられないように必死に閉じた心に手を掛けられた気分で、眠っていた苛立ちが
瞬間に爆発しそうになる。
「お前の好きなヤツと好きにしろってこと!」
「・・・・・・」
こんな別れは慣れてなくて、お互い出方が分からない。喧嘩別れした方が、遥かに清々して
るような気がした。
 蛍琉は言葉を吐き出そうとして、それを飲み込んだ。
そんな蛍琉に、智優が最後の強がりを見せる。
「・・・・・・俺の知ってる人?」
「え?」
「蛍琉の好きな人。・・・・・・俺の知ってるヤツ?」
蛍琉は一瞬智優を振り返って、そして直ぐに目を逸らした。
「・・・・・・知らない人」
「そう」
 蛍琉は嘘が下手だ。下手だから、嘘を吐かないのか、嘘を吐かないから下手になるのか
智優には分からないけれど、こんなときくらい、せめてもう少しスマートに片付けられない
のかと、智優はきりきりと痛む胸を押さえながら思った。
 きっとアイツだろう。智優は嘗て家に遊びに来たあの若い男の事を思い出していた。
あの頃から予感がしていた、と言うのはこういう展開になったから言える事なのか。けれど
初めて会ったあの瞬間から、智優には嫌な予感がずっと付き回っていたのは事実だ。
随分積極的だったから、蛍琉は流されたのかもしれない。今の自分と蛍琉の間には隙
だらけで、彼になら入り込む余地は十分にあったのだろう。
 蛍琉の店で毎日顔を合わせ、同じ趣味に意気投合し、自然と惹かれていく・・・・・・智優が
あの店の前で見たのは幻でもなんでもなく、痛いほどの現実だったのだ。
「ちっ」
舌打ちして、リビングを後にする。もう蛍琉は追いかけてくることもない。最後の顔が
あんなに気まずい蛍琉の顔になるとは・・・・・・
 智優は玄関で深呼吸を繰り返すと、静かにマンションを後にした。





from:奈央
sub:捨ててきた
  蛍琉に振られたから
マンションごと、蛍琉のこと
捨ててきた





スーツケースを転がして、夜の街を歩く。深刻な気分になる前に、智優はケータイを取り
出すと、とりあえず幼馴染のアドレスを開いた。
 それから、何も考えることなく、事務作業みたいにメールを打った。
『智優!?』
奈央からの返事はメールではなく、ひっくり返った声の電話だった。
「うぃーっす」
智優はテンションの低い声で返事をした。
『お前、何あったの!?』
落ち込んではいるけれど、絶望しているなんて悟られたくなくて、智優は自嘲気味にメール
の文句を言いなおす。
「だからさー、マンションごと蛍琉の事捨ててきたんだって」
『智優・・・・・・馬鹿だろ』
「びどいなあ、振られた人間に言う台詞?」
『友人だから言えるありがたい一言だと思えば?・・・・・・どーすんの?ウチ来る?』
「・・・・・・行く当てがなかったら、そうする」
『あるの?』
「あるけど、迷ってる」
電話口の向こうから溜息が聞こえた。
『あんまり無茶すんなよ』
「・・・・・・うん」
電話を切ると、智優は鼻を啜って空を見上げた。
 昼間の曇り空が嘘なほど綺麗な月夜だった。





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