なかったことにしてください  memo  work  clap
天 体 観 測 



 6月に入ると、松本は一気に暑くなった。アスファルトに照り返す日光が眩しくて、春樹は
目を細めながら大学までの道のりを急いだ。
 1年の必須科目は多く、朝から7コマ目の講義までびっちり入っている日もある。教養科目は
座っているだけでも何とかなりそうな気がしているが、数学や物理は既に頭がおかしくなりそうだ。
 高校までやってきた数学の延長だとはとても思えないほど、高度な知識を要求される。
春樹は教科書やノートのぎっしり詰まった鞄を肩に掛けなおして講義棟へ向かった。
「おっす」
「おはよ、進藤」
大講義室に入ると一番後ろの席に要が座っていた。要は春樹に気がつくと隣においてあった
鞄をどかして席を空けた。
「サンキュ。」
「朝一で、数学はキツイよな・・・」
春樹はあくびをかみ締めて目じりに溜まった涙をふき取った。頭がまだ寝ぼけている。
「ねえ、今日、夜行ってもいい?」
「あ?何、飲み会か?」
「うん。学科の奴等で飲むみたい」
「俺、自動車学校の後、バイトあるけど・・・11時には家にいると思うから。それでよければ」
「きっと12時は回ると思うよ」
要は少し苦笑いした。「社会開発工はザルが多いらしいしな」と春樹も鼻から抜けるような
笑い方をした。
 春樹と要は同じ工学部だが、春樹は情報工学科で、一方要は社会開発工学科という専門分野は
全く異なる科を専攻している。
 同じ講義は精精基礎数学や基礎物理くらいで、それ以外は一緒になることはない。当然学科内の
友人と過ごすこともあり、春樹も要もお互いのことを一部ではよく知っているがそれ以外は
全く分からないという関係を築いていた。
 それでも、要が春樹の家に泊まりに来る回数は確実に増えていた。多ければ1週間に3日。
サークルがあった日はほぼ泊まっていく。別に何をするわけでもないが、ゲームしたり、他愛のない
高校時代の話をしたり、春樹が6月から通い始めた自動車教習所で、ミスタービーンにそっくりな
教官がいて、それがかなりの走り屋だということや、要のバイト先のコンビニの店長がガンダム
マニアなことなど、どうでもいい話をとうとうと語ったり、時には要が星座の話を語って春樹に
聞かせたりもした。
「あ、そうだ、一真先輩が今週の土曜のサークルは八ヶ岳だって」
「ついに、行くのか。へー、楽しみだな。そんで、どうやって行くんだ?」
「先輩達が何台か車出してくれるからそれに乗せてもらえると思うよ。なんなら僕も車出すし」
要は高校卒業と同時に免許を取った。ただし、車は持っていない。家に父親の車があるので、時々
それを運転して春樹と出かけることもあるが、春樹は要の運転にいまいち信用がない。
「できれば、お前が車を出さないで済むような方向にいくことを願うよ」
「あ、進藤、僕の運転が気に入らないんだ?」
「だって、お前、スピード出しすぎ」
「進藤も自分で免許取ったらきっとそうなるよ」
要は皮肉そうな顔で言った。


 週末は見事な快晴だった。梅雨入り目前の最後の快晴かもしれない。これならきっと綺麗な
星空が見えるだろう。
 春樹はサークル棟の前に集合時刻の10分前には着いて、自分が思った以上に張り切っている
ことに驚いた。
 松本は、東京とは比べ物にならないほどよく星が見える。春樹のアパートの周りは市街地から
も少し離れていることから、明かりが少なく、夜になれば街灯とコンビニ以外は特に明るい
ものはない。部屋から空を見上げた時、「春の大三角」と呼ばれるおとめ座の白いスピカ、しし座
デネボラ、うしかい座の明るいアークトゥルスがはっきりと見えた。特にデネボラなどは、2等星
なため、春樹の実家からではよほど暗くなければ発見できない。
 それが、ここに来てから、春樹はおとめ座の形ですらはっきり確認できるようになったのだ。
それは凄い衝撃だった。昔、プラネタリウムで要に言われた「長野だったらこれくらい星が見える」
というのはあながち嘘ではないと実感しかけている。
 八ヶ岳がどんな星を見せてくれるのか、春樹は内心ウキウキしていたのだ。
「おー、進藤、早いな」
「あ、隼人先輩。おはようございます」
「他は?」
「まだ、みたいっすね」
「そっか。正門前に一真の車止めてあるから、お前、望月と一緒にそれ乗りな」
「一真先輩が車出してくれたんですか」
「ああ。実家から親の車借りてきたんだけどな」
「実家・・・」
春樹は、そういえば一真も松本が実家だったということに改めて気づく。1人暮らしなんてしている
から、他県から来たかのように思いがちだが、隼人や要と同じように、地元なのだ。
「一真先輩、なんで1人暮らしなんでしょうね・・・。実家、松本市内なんですよね?」
「ああ。一真、兄貴がいるんだけどさ。1年前に結婚したんだ。嫁さん、兄貴と一緒に実家で
暮らしてるから、遠慮して外でたんだよ」
 そんなに気を使う必要はないと、家族中に反対されたらしいが、そう言われるほど、
余計に気が詰まり、一真は家を出た。
「一真は、他人に気を使いすぎなんだよ」
「面倒見がよくて、頼りになると思いますけど・・・」
「そうやって、何でもかんでも頼られて、最後には潰れてしまわなければいいんだけどな」
「だから、隼人先輩が潰れないように見てるんですか?」
「は?」
「あ、いや。すみません。深い意味はないんですけど、隼人先輩ってそんな一真先輩のフォロー役
みたいな感じがして・・・」
「うーん。俺も、負けず劣らずお節介なのか・・・」
 春樹は隼人を見つめた。その視線から逃れるように、隼人は苦笑いして、ポケットからタバコを
取り出して咥えた。隼人の吐き出す煙で春樹は喉が詰まった。
 春樹はタバコを吸いたいと思ったことはないが、きっと吸い始めたら辞められなくなるのだろう
とも思う。
 例えば今みたいに、間が悪くなったり、手持ち無沙汰になったときに、すっと手が伸びてしまう。
何かに逃げるように、依存するように、そういう道具としてタバコを吸う人間が嫌いだ。多分
隼人自身は無自覚のうちに口に咥えているのだとしても。
その仕草がかっこいいとかそういうのは別として、春樹は何かに「逃げる」ことだけはしたく
なかった。
 誰かに依存することが自分を自分でなくしてしまうのではないかという恐怖を春樹はどこかに
持っている。だからほんの少しでも自分の置かれている立場から逃げ出すようなことはしたくない
のだ。そういうのは「卑怯」だと春樹は思っている。
 自分が少しばかりストイックな考えを持っているのは自分でも自覚している。それでも、自分の
性格は曲げられないことも春樹は分かっていた。
 そんな思いとは無関係に隼人は旨そうにタバコの煙を吐き出していた。
「おーい、進藤」
自分を呼ぶ声がして、隼人の肩越しに要の姿が見えた。
「あ、要」
「ごめん、待ってた?」
「いや、まだ他、誰も来てないし」
「ああ、他の人たちは、皆正門前にいるよ。一真先輩が正門でみんな捕まえちゃったから」
「なんだよ、わざわざここまで来ちゃったよ。正門前集合にしてくれればよかったのに」
「ホントだな。歩き損だ」
「正門で皆待ってるから、行こう」
「ああ」
正門まで3人で向かうと、正門前で一真が手を振っていた。他に車が4台。サークルのメンバーは
15人程いるように見えた。
「進藤、ごめん。正門で車止めて待ってたら、みんなここで止まっちゃって」
「ああ、全然いいですよ・・・あれ、武田先輩?」
「よ!」
「珍しいですね」
「何を言うか、俺はね、こういうイベントには必ず参加するって決めてるの」
「普段の観測会とやること変わんないと思うんですけど・・・」
「バカだな、進藤。ここから2時間もかけて星を見に行くんだぞ?全然違う」
「どう違うんですかー?」
「車で行く。それはとても重要なことだ」
「車、ですか?」
「そう。車。舐めたらあかんで。車の中でのスキンシップは人を非常に親密にする」
「はあ・・・」
武田が右手を腰にあて、チッチッチと左手の人差し指を立てた。それを見て、すぐ後ろで英恵が
クスクスと笑っている。口元を軽く押さえて。とても楽しそうだ。
(そういうことか・・・)
英恵の右手の薬指にはシルバーリングがはめられていた。前の飲み会の時に、それがはめられていた
かどうかは記憶にない。だから、そのリングの送り主が年上のサラリーマンの彼氏なのか、
武田なのか、春樹には分からなかったが、少なくとも、英恵の心は少しずつ武田に向かっている
ように思えた。
「まあ、武田はほっとけばいい。ほら、進藤、こっち乗れよ」
一真が呆れたように武田を見て、春樹に車に乗るように促した。既に助手席には隼人が乗り込み、
後部座席の扉を要が開けようとしていた。
 要と一真、隼人の4人ならば、さほど緊張せずいられる、春樹はほっとしながら後部座席に
乗り込んだ。
 一真は他の運転手と道の相談をした後、車に乗り込んで、
「んじゃ、行きますか」
と、普段より少しばかりテンションの高い声で車を発進させた。

 「今日は10時頃になったら、そろそろ夏の星座が見えるな」
「はくちょう座・・・」
春樹は呟く。要はそれを見て、複雑な思いで多分見えるよと言った。
「『七夕様』もな」
そう言うと隼人はクスクスと笑い出した。
「なんだよ、隼人、気持ち悪いな」
「いや、ちょっと高3の学園祭思い出して」
「ばか、何思い出してるんだよ」
「何かあるんですか?」
「んー、まあ大したことじゃないんだけどな。雛姫ちゃんが一真にベタ惚れするきっかけに
なった出来事」
「ばか、言うなって」
一真は心底照れいるようだ。
「聞きたいっす」
「ウチのクラス、学園祭で『プラネタリウム』やったんだ。こうさ、みんなで円形の木枠作って
天幕つけて。プラネタリウムの手作りキッドみたいなの買って来てさ。教室の床に絨毯敷いて、
クッションなんか持ち込んで。コンセプトは『カップルで楽しむ夜空』とかだったかな。
まあ、当時ウチのクラスはバカなヤツとノリがいいヤツばっかりだったから、みんなそんなんで
かなり乗り気だった。そんでな、プラネタリウムで星が回ってるだけじゃ面白くないからって
どうせなら、星座にまつわる話でも語ったらどうだってことになって」
隼人はそこで一端話を切った。一真は何も言わなかった。隼人はふんと鼻で笑って続けた。
「それでさ、四季それぞれの星座で有名な星座の話をすることになったんだけど、話するだけじゃ
面白くないって誰かが言い出して。ちょっとしたドラマ仕立てですることになったんだ。西洋の
神話をベースに手を加えたりしてさ。星空の映像流しながら、ミニドラマ。配役も決めて、
クラスの文章が得意な子たちが話し書いて。ただ、夏の星座はやっぱり『七夕』だろってことで、
西洋の神話から東洋の神話になっちまった。なんせ、コンセプトが『カップルで楽しむ夜空』
だったから、色恋沙汰の方が面白いだろって」
隼人は楽しそうにけらけらと笑った。相変わらず一真は黙っている。後部座席からは一真の表情は
確認できないが、むすっとしているようにも思えた。
「じゃあ、一真先輩が「牽牛」やったんですね?」
要が思いついたように断言した。
「あ、望月はもう分かっちゃったか」
「・・・どういうことだよ?」
「名前、ですよね?」
「そう。初めはただのシャレでその役を決めたんだ」
「シャレ・・・?」
「彦星と織姫星。いたんだよ、ウチのクラスに」
春樹は一真の名前を思い出す。彦坂一真。そういえば、雛姫のフルネームは織部雛姫だった。
「ホントだ・・・。あ、それで、この前あったときに雛姫さんのこと織姫様って言ったんですか」
「まあね」
春樹は七夕の神話をはっきりとは知らない。小さい頃に教えられた話は牽牛に惚れた織姫が
仕事もせず、2人遊んでばかりで、怒った父親が川の対岸に2人を引き離してしまうというものだ。
 そして、1年に一度だけ、7月7日だけ天の川をカササギが橋渡ししてくれるというものだった
気がする。
「お前だって、そうやって名前で役を決められた口じゃん」
一真が拗ねたような口調で言った。
「隼人先輩も?」
「何の役やったんですか?」
「・・・台本書いた子がさ、何を思ったか、なんにでも台詞つけちゃう子だったんだよね」
「なんにでも・・・」
要はじっと考えていたが、ポンと答えを出した。
「月、ですか?」
「望月、今日はなんか冴えてるな」
「月って、ああ「大槻」だからですか?」
「もう、字もあってないよな。音だけで。しかも、月の役って何だって感じだし」
「月って何の役なんです?」
要がすかさずフォローしてくれる。
「あのね、進藤。太陰太陽暦の七夕の時って必ず月は上弦の月になるんだ」
「うん?」
「上弦の月って何かの形に似てない?」
「何かって・・・」
何だよ、と呟く春樹に被せるように要は、天の川に浮かべてごらんよといった。
「舟か・・・?」
「そうそう。中国なんかではね、天の川を渡るの舟に上弦の月が例えられていたんだ」
「ただ、舟は役立たずなんだけどな」
一真がやっと機嫌を直して口を挟んだ。要がその言葉を受けて頷いた。
「そうですね。一説によると、天の川の水かさが増して舟が出せなくなり、そのかわりに
カササギが橋を掛けてくれるんだ」
「そ。俺はその役立たずの月役。まあ、正確には月の舟の船頭役だったんだけどさ」
「でも、実際はちゃんとキューピットになれたんでしょう?」
春樹が真顔で言うので、車内は一瞬しんと静まったが、それから隼人がゲラゲラと声をあげた。
「すまん、すまん。一真、コイツらにしゃべっちまった」
「・・・別にいいけどさ」
 一真はため息をついて、諦めたように言った。
 行き道の車の中はとても楽しかったと、後で考えてもそう思った。隼人と一真の就職活動の
失敗談や、卒論の話。一真は理学部の地質科学科なのだが、学科の方がサークルの延長だと
思っていて、卒論を天文学の方に無理矢理くっつけようとしてゼミの教授と必死の攻防をしてる
ことなど、4年ならではの話は興奮して、そして少しだけ心に重く圧し掛かった。4年になれば
授業は週に1コマか2コマ程度しかないらしい。週20コマも抱えている春樹にとってそれは夢の
ような生活に思えたが、卒論の苦しみは未知数で、怖かった。
 春樹は近くのレンタルビデオ屋でバイトしている話をしたように思う。今度借りに行くときは
まけてくれと、隼人が言っていた。
 車内の他愛のない会話がどうしてそんなに「楽しかった」と思えるのか、春樹はこの後に起きた
人生最大級の出来事に自分の感覚を狂わされたからなのかもしれない。
 一真の運転は要よりも数段心地よかったと、春樹は安心しながら後部座席から見える景色を
楽しんでいた。


 <<6へ続く>>




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