10.ねじれ
朝9時の太陽は8月の後半だというのに、ギラギラと痛みを伴う光で地上に降り注いでいた。
郁生は、グラウンドの日陰でストレッチをしながら昨日からの纏まらない思いを掘り起こ
しては、気を滅入らせていた。
「うっす、塚本」
「あ、先輩。おはようございます」
長距離の先輩ランナーに後ろから声をかけられて顔を上げると、その顔もどこか不安気な
表情をしていた。
「お前、駿也探しに行ってたって?」
昨日、郁生が有休を使ったことで、駿也の無断欠勤はただ事ではないと、部員達の間でも
噂になってたらしい。
「隠しても仕方ないんで、ホントっすよ」
「まじで失踪?!……で、どうだったんだ?」
「……やっぱり、こっちにも駿也さん来てないっすよね……」
「おいおい、やべえだろそれ」
食いつきそうな勢いの先輩を尻目に、郁生は真っ青な空を見上げて目を細めた。
「……どこ、行っちゃったんでしょうね……」
途方に暮れるとはこういう時の言葉なんだろうと、郁生はぼんやりそう思っていた。
ウォーミングアップが終わる頃に佐伯監督はやって来た。監督の顔もやはり冴えないと
郁生は近づいてくるその表情を見ながら思った。
「塚杜!」
監督に呼ばれ、郁生はウォーミングアップの輪から外れた。
「おはようございます……監督」
「嫌な顔してるな」
監督は郁生の表情で全てを察したのか、首の後ろに手をやって大きなため息を吐いた。
胸が苦しい。成果を何も残せず有休を消化してしまい、それどころか、心に大きな影を
落として帰ってきてしまった。役立たずもいいところだ。
「……今日、ちょっと時間取れますか?」
「長くなるのか?」
「いろいろ聞きたいこともあるんで……」
「そうか。じゃあ、飲み行くか」
「あ……はいっ」
郁生は軽く頭を下げると、輪の中へ戻っていった。
秋の大会まで、あまり余裕がない。駿也を探すのも大切だが、自分の仕事をおろそかにする
わけにもいかなかった。
駿也が帰ってきたら、自分の進退を考えなければならない。確かに膝の傷は完治した。もう
大丈夫だと自分でも思う。タイムも平凡ながら安定はしてきた。が、決定的な走りにはなら
なかった。リハビリと焦りで浮上できない中、ここまで戻してきたことを褒めるべきなの
かもしれないが、郁生には燃焼しきれないくすぶった思いがずっと付きまとっている。
満足いく走りなんて一生無理なのだ、と。
それならいっそ、駿也に負けて最後通牒を突きつけられた方がマシな気もしている。
スパイラルの感情は真夏の太陽に溶けてぐちゃぐちゃになって、郁生の身体にべっとりと
張り付いていて、郁生はそれを汗で洗い流すようにトラックを走り抜けた。
安い居酒屋を選んだのは、適度なざわつきがある方がかえって落ち着くだろうと佐伯が配慮
してくれたからだった。
「久々の飲みが、こんな店で悪いな」
「いえ、とんでもないです。駿也さん見つかったらちゃんと奢ってもらいますから」
郁生が無理して笑うと、監督も作り笑顔でビールジョッキを上げた。
カツンと小さな音を立てて乾杯をする。郁生は迷うことなく一気に飲み干した。
身体の中に染みていくアルコールが郁生の緊張を無理矢理柔らかくしてくれるようだった。
監督は突き出しの煮物を一つ口に運んで、またビールで流し込んだ。
「なあ、塚杜」
「はい」
「駿也は……まだ生きてるんだよな?」
「俺はそう信じてます。確かに昨日一日探し回って、大した収穫はありませんでしたけど、
死んでるっていう証拠だってないんだから、俺は信じたいです」
「そうか。そうだな。あすたか園の施設長には会えたのか?」
「はい。駿也さん、施設育ちだったんですね……」
「俺は、お前が知らなかったことの方が意外だったんだけどな」
「俺、プライベートあんまり知らないんです。円満な家庭の幸せそうな父親しか知らなく
て、こんなことになってるなんて……」
「こんなこと?」
思わず吐いた口に、郁生は顔を歪めた。隠しても仕方がないとは思うが、先輩の不貞を
こんな形で暴露するのも気が引ける。
どう説明してよいのか葛藤が渦巻いて、郁生は「相手」の方から切り出した。
「監督、若見瑛さんって言う人知ってますか?」
「……!?」
彼の名前を出したところで、監督の箸が止まった。
「監督?」
「お前、あいつにも会った?」
硬い表情で見つめられると、郁生は逆らえず素直に頷いた。
「あすたか園で、施設長に『若見瑛』だったら知ってるかもしれないって言われたので……
あの、まずかったですか?」
「いや……お前がじゃない」
「え?」
「あそこ、まだ繋がってたんだな」
「え?!」
監督はほろ苦い顔で郁生を見る。ジョッキを置くと、「昔の話なんだが」と呟き始めた。
「あすたか園で聞いたかもしれないが、俺は学生の頃、あの園で学生ボランティアっていう
のをしてたんだ。まあやることって言ったら、無償の家庭教師や雑務。俺はその頃、大学
の陸上部でそこそこの走りしてたから、出張陸上部みたいなこともやってた。走ることで
内に溜め込んだストレスを発散できるっていう意味もあって施設の人も協力的だったし、
参加する子も多かったな。駿也もそうだった。強制じゃないから、2回に1回とか3回に1回
とかそんな頻度で来る子が殆どだったけど、駿也は違った。毎回必ず参加して、俺でも驚
くくらいタイムが伸びた。……俺も、自分が手塩にかけて育てたなんてちょっと付け上がっ
てたんだろうな。駿也のことを可愛がってたし、駿也もなついてくれてた。あいつ、まだ
小学生だったんだ……」
「長い付き合いなんですね。高校推薦も大学推薦も監督が走り回って掴んでくれたって園
の施設長がおっしゃってました」
郁生の言葉に、監督は笑って否定した。
「そりゃあ、長谷川さんの心遣いだ。俺はただこんな学校があるって紹介しただけで、
それを掴み取ったのは駿也の実力と人柄だ。あいつ、ホント素直でいい子だったんだぞ」
「施設長もそうおっしゃってました」
「あんな環境でよくここまでまっすぐ育ったと、俺は逆に怖くなったけどな。ただ……」
監督は言葉を止めると、殆ど空いてしまったジョッキに手をつけた。曇った表情で小さく
鼻を鳴らす。
「監督?」
「俺も、駿也と瑛が元々どれだけの関係だったのかは知らん。けどな、時々、駿也が瑛に
なついてるというか、狂酔してるんじゃないかって思う事があって、俺はそれを見ると何
大変なことが起きるんじゃないかって怖くなった……」
確かにあの男には人を惑わせるオーラがある気がする。あの瞳に駿也は見つめられ続けて
いたのなら、駿也はとっくに狂っていたのかもしれない。
「若見瑛って方はどんな人なんですか」
「俺が学生ボランティアで入った時は中学生だった。中学生のくせに俺は最初話かけられ
なかった」
「荒れてたんですか?」
「いや。見た目は全然、かな。ただ、瑛はとにかく異質だった。施設で育つ子供は誰しも
心に傷を追っているし、世間から見れば『異質』な部分もあるだろうけど、瑛はそんな中
にいても、やっぱり異質だったような気がする」
「異質、ですか……」
「長谷川さんに詳しく聞いたわけじゃないから、半分は憶測なんだが」
監督は一度そこで断りを入れると、言いにくそうに話を続けた。
「瑛には愛情形成に問題があったんじゃないかと……」
「どういうことですか?」
「瑛は、どうやらネグレクトされてたところを発見されてあすたか園に入ってきたらしい
んだ。詳しいことは俺も知らんよ。学生ボランティアといえ部外者だったからな。当時、
そういう噂が流れてた程度に止めとけ。で、ネグレクトには愛着障害が出ることがあるん
そうだ」
「愛着障害?それって病気なんですか?」
「病気か……うーん、病気なんかなあ……。学生ボランティアやってた時に、養護教育を
選修してるヤツがいたんだけど、そいつが『瑛は愛着障害だろうな』って言ってたんだ」
「よく、わかりません」
「俺もよくわからんよ。ただ、瑛の場合は、妙に人懐っこかったり、心を開いてるように
見せては近づききすぎると心を閉じてしまうというか……。距離感をどう保てばいいのか
すごく難しかった。依存先を探してるように見えるって、養護教師になったヤツは言って
たな……」
歯切れの悪い口調が、いつもの監督を消していく。郁生にはそれが不気味だった。
ただ、監督の言うことには深く共感する部分があった。初め瑛を見たとき、あの人を不安
にさせる距離がたまらなく、逃げ出したくなったからだ。
「まあ、そう言う境遇の子は他にもいたし、珍しい事例でもないらしいんだが、瑛はその
アンバランスさが突出してたんだろう」
「それは、ちょっと分かるかもしれません。……昨日会ったときもそう言う感じが出て
ました……」
重苦しい空気に変わる前に監督は話を進めた。
「……で、その瑛はなんだって?」
「駿也さんとは会ってないから、居場所は分からないと」
「他には?」
「……他ですか?」
じろりと睨んだ監督の瞳と視線が合う。
「知りません、はいそうですかでは流石に終わらんだろ」
「それは……」
促す監督の顔が曇ってる。ここまで来たら引き返すわけには行かない。駿也の行動が失踪
の原因に繋がってるのかもしれないし、伏せるのは限界だった。
けれど、監督は答えを予測してるのではないのだろうかという思いもあり、郁生ははっきり
とその一言を発した。
「奥さんの差金かと。自分と駿也さんを引き離そうって魂胆なんだろ、と」
監督はしばらく郁生の顔を見て、唸りながら頭を抱えた。それで全て察したのだろう。
「あのばかがっ……」小さく吐き捨てたセリフが宙を漂って、郁生の周りで粉々になって
消えた。
「そういえば、若見瑛さんと別れたあと、警察の方が来て」
「警察?」
「何か、別件で若見瑛さんと接触してたみたいなんですけど、俺の話も一応聞いてくれて
ちゃんと駿也さんを探すと」
「そうか。瑛、警察に訪ねられるなんて、何したんだろうな」
「さあ。あ、警察に西口健人の写真を見せられて、知ってるかって言われました。そりゃあ
あんな有名人だったんですから、知ってますって答えたら、駿也さんと知り合いじゃなかった
かって言われたんですけど……」
「他種別のスポーツだとトップアスリート同士でも交流は少ないからなあ……。わからんな」
「ですよね」
郁生はビールジョッキを煽って最後の一口を流し込んだ。
「まあ、とにかく、おつかれさん。ありがとな。お前は練習に戻れよ。あと、若見瑛には
あんまり近づくな」
「監督!?」
「警察も動いてくれてるんだろ?だったら、専門に任せたほうがいい。瑛は塚杜が正面から
つついても口を割るタイプじゃないってわかっただろう?とにかく俺たちは駿也が無事に
帰ってくるのを待つしかできないんだよ。お前ができることは練習して、秋の大会に臨む
ことくらいだ」
監督は厳しい顔で郁生に言った。それはある意味本音ではあったが、その裏には確実に
若見瑛と関わるなという強いメッセージが込められていた。
郁生はその言葉をどうやって受け止めていいのか迷いながら心に締まった。
駿也の失踪から一週間近く経っていた。一向に和らぐ気配のなかった日差しも、ようやく
諦めはじめたのか、今朝はうっすら秋風すら感じられた。
郁生は半ば義務のように駿也の自宅に電話をし、帰ってきてないことを確認して出勤する。
妻の莉子は、当初落ち込んでむせび泣いていたが、今朝は心ここにあらずのような遠い声
をしていた。郁生は「諦めないでくださいよ、絶対帰ってきますから」そう声を掛けた自
分が虚しくなる気がした。
愛車は肩身の狭そうなエンジン音をあげ朝の住宅街を抜けてた。いつまでこの生活が続く
のだろうか。駿也がいないことがやがて当たり前になり、自分も駿也の影を追わなくなる
時がるくのだろうか。一歩先ですら想像できない日々を郁生はやり過ごすしかなかった。
「うっす、塚杜」
「おはようございます」
グランドでストレッチをしていると仲の良い先輩に声をかけられた。駿也がいなくなって
からこっち、郁生とストレッチの相手をしてくれる人だ。
「今日も連絡なしか?」
「ダメっすね」
「駿也、本当にどこに行ったんだろうな」
内臀筋を伸ばしながら先輩が呟く。郁生も左に身体をねじりながらその答えをオウム返し
するしかなかった。
着々とストレッチをこなしていると、後ろを通り過ぎる部員の声が飛んできた。
「駿也さん、まだ帰ってこないみたいっすね」
「やばいだろ?」
「どこいったんだろうな。てか、大会どうすんだろ」
郁生に向けて発しているわけではないのに、遠巻きに矢印が飛んできている気がして、郁生
のこめかみがピクピクしている。
「あっちが一人で出るんだろ」
「マジかよ。羨ましいな」
握った拳が震えだし振り返りそうになるのを、先輩が止めた。
「塚杜」
小声で耳元に囁かれた声で郁生はギリギリの理性を保つ。
「……」
部員達はわかっててやっているのだろう。声が一弾と大きくなった。
「実は帰ってこない方が嬉しかったりして」
「リストラ免れるし」
「本当は行方知ってたり?」
ニヤニヤとした卑しい笑いが周りに漂っている。振り返らなくても分かる。奴らは下衆
以下の顔で笑っているんだ。
「塚杜!」
噛み締めた奥歯が痛い。どれだけ我慢してるか先輩にも伝わっているだろう。
部員が通り過ぎると、郁生はやっと肩の力を抜いた。その肩を先輩がポンポンと叩いて
くれる。
「気にするな、やっかんでるだけだ。あいつらもリストラ線上だから」
「……わかってます」
分かってる。やっかみなことくらい十分分かってる。そうじゃないんだと郁生は思った。
震えるほど怒りがこみ上げたのは図星だからだ。
自分にもそういう気持ちがないわけじゃない。心配で苦しいはずなのに、帰って来なければ
このまま部に残れるのは自分になるという期待がチラチラとかすむ。
それを見透かされたからだ。この矛盾した感情は何処にぶつけたらいいのだろう。
「走ってきます!」
郁生は立ち上がるとグラウンドに向かって駆け出していた。
――>>next
よろしければ、ご感想お聞かせ下さい
nakattakotonishitekudasai ©2006-2010 kaoruko since2006/09/13