11.向こう側の真実
「ラスト一本!終わったら昼休憩だ!」
「うぃーっす!」
200m先のゴールに焦点を当て、郁生は深呼吸を繰り返した。照りつける太陽が眩しく、
ジリジリと肌を焼いていく。ぽたり、頬を伝った汗がトラックの上に落ちた。
郁生はクラウチング台に足をセットして顎を引く。
日差しが刺す皮膚の感覚も風の音も、自分の呼吸すら全て「無」になった時の感覚を郁生
は思い出そうとした。
もう一度あれが手に入れば、自分はこの壁を乗り越えられるかもしれない。平凡なタイム
のままで足掻いている今の自分から抜け出せるかもしれない。
超えたい。自分を。花里駿也を。
無になろうとするほど邪念が頭の中を暴れ、郁生の心は浮ついた。
スターターの乾いた音がなった瞬間、郁生は思惑を引きずったまま飛び出したのだった。
「昼休み終わったら、ミーティング!解散!」
昼休憩前の一本を不発に終わらせ、郁生はやり場のない憤りと悔しさを持て余しながら
部室になだれ込んだ。
「お疲れ!」
「お疲れ様っす」
部室に戻ると、長距離の先輩が先に休憩に入っていた。
「ああ、疲れた疲れた。こんな炎天下で走るなんざ、鬼畜の所業だ」
「言い過ぎですって。先輩なら昼ごはんたべたら、ケロっと息吹き返すでしょう?」
「どうだか。まあ、とりあえず飯!塚杜、飯どうする?」
「俺、弁当あるんで」
「そうか。カーチャン作だっけ?」
「あはは、そうっすね」
「色気ねえなあ」
先輩は笑うと立ち上がって財布をポケットにねじ込んだ。
「じゃあ、飯食ってくるわ。また後でな」
「はい。いってらっしゃい」
部室で郁生が母親の弁当を食べていると、ケータイが鳴り出した。郁生はディスプレイ
を確認して、慌ててお茶でごはんを流し込む。慌てて取ったために、始めの一言がひっくり
返ってしまった。
「つっ塚杜です」
『花里です。お昼時間にごめんなさい。今大丈夫ですか?』
「はい、勿論です。何かありました?」
今日で駿也がいなくなってから10日経っているはずだ。そろそろ進展がなければ、生命的
にも、周りの記憶からも消えてしまうのではと焦りが見え隠れしていた。
『今日の夕方、警察の方が来るそうです』
「え?……あ!ひょっとして、えっと……横沢さんとか言う方?」
『ええ』
「……本当に動いてくれたんだ」
半分信じられない気持ちでいたが、刑事が動き出したことを知ると、駿也の失踪が急に
現実味を帯びだ気がして、郁生は今更ながら怖くなった。
『塚杜さんが警察動かしてくださったんですね。ありがとうございます……』
「いえ!俺は何も。たまたまです」
そう。本当に偶然だったのだ。若見瑛を追いかけていたら刑事に出会った、ただそれだけ
のことだ。
『……お時間あれば塚杜さんも一緒にいてくださいませんか?』
「ええ、それは勿論。伺います」
『お願いします。……それで、主人の失踪の手がかりになるものがそちらにも残ってない
かとのことで。主人の私物、ありますでしょうか?』
「そうですね。……個人ロッカーがありますので、開けさせてもらっていいですか?」
『お願いします』
「分かりました。それでは練習が終わったら伺います」
「はい」
莉子はまるで音声案内のような無機質の声で返事をして、電話は切られた。
郁生は切れた電話を見つめ、莉子を思った。駿也がもし崩壊しかけた家族を捨てて逃げた
男だとしたら……。駿也の行き先はやはり若見瑛のところだったら?
莉子の心情を傷つけることばかりが浮かんで郁生は首を振った。
自分が気に病んでも仕方のないことだ。走り出した真実への道は、走りきるしかゴールは
ないのだ。
郁生は母親の作った弁当を掻き込んだ。残りの休み時間は昼寝をしよう。何もかも頭の中
から追い出してしまいたい。何も考えずに眠りたい。
郁生は弁当を片付け、部室のソファに転がると静かに目を閉じた。
昼からの練習は無心になろうとすればするほど空回りを起こし、無駄に体力ばかり消耗する
という悪循環を起こしていた。
今日はもう上がれという監督にもう一回やらせてくれと頭を下げ、粘り抜いたラスト一本
で郁生は足を痙った。体は限界だった。
「今日はもう終わりだ」
監督の言葉に郁生は唇を噛み締めて小さく頷くことしかできなかった。
越えられない。目の前にある壁がどうやっても越えられない。あと少しで手が届きそう
なのに、それほど大きく見えない壁なのに、絶対に届かないのだ。
焦るなという方が無理だ。だったら開き直って思う存分焦ろうと思ってもみるのだが、
パニックを起こすほど心が乱れる前に、冷静な自分がブレーキをかけてしまう。
結局、どうあがいても平常心な自分の頭の片隅にかつての自分の残滓が見切れて、無心に
はなりきれないままなのだった。
「クソっ!クソ!クソ!!」
吐き捨てた言葉は夕暮れのグランドに染み込むように消えていった。
ズタズタにへし折られた精神状態だったため、郁生は莉子との約束は頭にあったものの、
何時までに集合しなければならないという、きっちりした計画が立てられなかった。ヘト
ヘトで帰ってきた部室で、監督に駿也のロッカーの鍵を開けてもらい、私物を全てカバン
に突っ込むと、重たい足取りで花里家に向かった。
インターフォンを押したときには辺りはすっかり暗く、晩夏の風が火照った体を冷やして
いった。
「こんばんは、塚杜です。遅くなって申し訳ありません」
出迎えてくれたのは、やはりやつれた顔をした莉子だった。
「塚杜さん……つい5分ほど前に警察の方、帰られてしまったんです」
「やっぱり帰られてしまいましたか……。それらしき車が見当たらなかったので。部が長引いて
しまって、申し訳ないです」
「いえ、こちらこそお忙しい時に無理を言ったので……」
莉子は肩が落ちるくらいの溜息を吐いた。莉子に会うと、嫌な予感しかしない。自分の思考
までマイナスの方に引っ張られて、鬱々とした気分になる。
「あの、警察の方は何て?」
「……」
「莉子さん?」
「警察の威信にかけて全力で捜査します……だそうです。今更言われても、全然心が晴れ
ません。もう、あの人は帰ってこない。そうとしか思えないんです」
「そんな……望みはすててはいけませんよ!」
「どうせ生きていたって、私のもとには帰ってこない」
「莉子さん……」
返す言葉が見つからない。駿也は本当に家族への愛情を捨ててしまったのだろうか。あの
人を惑わせる植物学者の虜になって、見えないところへ行ってしまったのだろうか。
妻の莉子が確信するほど、駿也の心はもうここにはないのだろうか。
問いかけに対する答えは全てマイナスの言葉しか生まれず、郁生は莉子の顔が見られなく
なってしまった。
玄関で沈黙が続いたあと、莉子が思い出したように顔を上げた。
「警察の方が主人の手がかりがあればとおっしゃってたんですが」
「ああ!そうですね。駿也さんのロッカー開けさせてもらいました。陸上日誌が何冊か
出てきましたので、お持ちしました。プライベートなこともあるかもしれないので、中は
みてませんが……確認、お願いしても大丈夫ですか?」
「……ええ。もう、何を見ても驚きませんから」
「すみません」
郁生はカバンから日誌を取り出して、丁寧に差し出した。
花里家の玄関を出ると、外灯に照らされて一台の車が花里家に滑り込んでくるのが見えた。
見たことない車種に一瞬身構えたが、運転席から降りてきた人物を確認すると、郁生は軽く
頭を下げた。
「こんばんは、……泰輝さん、でしたよね?」
「ああ……兄さんの会社の……」
「塚杜です」
「何かあったのか?」
泰輝はぶっきらぼうな言い方で郁生を見上げた。郁生は曲がりなりにも自分の方が年上だと
体育会系の性か、その態度と言葉遣いに体の中で怒りの波が小さくうねった。
「……」
「何?」
その波を体に吸収させて静めると、郁生はわざと自分もフランクな口調に切り替えて言った。
「今日、警察の方が来てくれたみたいで、俺も一緒にってことだったんだけど、時間が
合わなかったんだ」
「警察!?なんで警察が!!」
異様な驚きに郁生の方が目を見開いてしまう。
「やっと警察が動いてくれたんだよ」
「今頃?兄さんいなくなって何日経ってると思ってんだよ!ふざけんなよ」
「確かに、けして早くはないけど、探してくれるって言ってるんだし……」
「あんたになんか、俺たち家族の気持、分かるわけねえ!」
「俺だって駿也さんを心配してる」
「……警察なんかいらねえ」
家族にとってみれば後手に回ったとしか言いようのない警察の対応には、怒りや不信感
も沸くだろうが、どんな理由があれ探してくれるといったあの刑事達の言葉に郁生は一筋
の希望を見出していた。この温度差は何なんだろう。
自分だって駿也は心配だし、身近にいた人間という意味では泰輝とそれほど変わらない気
はするが、家族の血が別の感情も生むのだろうか。
そう考えて、ふとあすたか園を思い出す。泰輝も施設で育ったのだ。たった二人の血を分けた
兄弟なのだから、自分が思うよりも強固な結びつきがあるのかもしれない。
「兄さんは俺たちの手で探す。絶対に」
「俺たち?」
訝しげに思わず眉を顰めると、泰輝は余計イライラした声になった。
「仲間だ!義姉さんや……昔からの知り合いとか、いっぱいいるだろ」
「……」
「なんだよ」
昔からの知り合いという言葉に思い浮かべたのは瑛だった。駿也と仲がよかったということ
は当然泰輝とも面識はあるだろう。泰輝がどれくらい二人の仲を知っているのかはわから
ないが、連絡くらいはとっているのではないだろうか
人を惑わせる目で見つめられ、一瞬のうちに心の隙間に潜り込まれた。背筋の凍るような
恐怖とも快楽とも判断のつかない空間を思い出すと、郁生は震えそうになった。
「……?」
「あ、あの……仲間っていうのは若見瑛も含まれてる?」
瑛の名前が出た途端、今度は泰輝の表情が一変した。
「あんた、あの人にあったのか」
「駿也さんを追って行ったら、若見さんにたどり着いた」
郁生が見下ろすと、泰輝は大きな舌打ちをした。苦い顔をしているが、その心の内までは
郁生には読めない。イラついた声は次第に大きくなり、郁生は胸ぐらを掴まれるかと身構
えるほどだった。
「……聞いたのか?」
歯を食いしばりながら泰輝は郁生を睨む。何のことを指しているのか郁生は直ぐに察し
泰輝の立場を思うと、いたたまれない気分になった。
「なんとなくは」
「あいつは馬鹿だ!何もかもめちゃくちゃにしやがって!」
吐き捨てた言葉に郁生は小さな違和感を得る。憎しみに溢れかえった瞳の裏側にギラついた
獰猛なハンターの匂いがする。
泰輝は誰を憎んでいるんだろう。郁生には返す言葉が見つからず、沈黙するしかなかった。
「とにかく、もう余計なことはしないでくれ。……義姉さんに会ってくるから」
一方的に言葉を投げ捨てていくと、泰輝は花里家に消えていった。
泰輝が去ったあとで、郁生は握っていた拳が強すぎて手が痺れていたことに漸く気がつい
たのだった。
夕食もそこそこに郁生は自室に戻るとベッドに転がった。目を閉じて呼吸を繰り返す。
横になっていると、次から次へと嫌な思いが浮かび上がり、ゴミばかりが頭の中に蓄積
されていく気がして、郁生は頭を振って起き上がった。
「あー、やめやめ!」
考えるのは苦手だ。あれこれ思っていても考えは纏まらない。頭を抱えていると、いつか
の駿也の声が降ってきた。
「よくさ『考えるな、感じろ』って言うけどさ、そういう感覚的な走りは10のうちの1つ
くらいなんだよ。あとは、ちゃんと運動原理に適ってることが必要で、そういう思考は
日誌とかに書き留めて、読み直すことが大切なんだと俺は思う」
自分が日誌を付け始めたのも、駿也の勧めだった。
「思ったことは書き留めておけ、か」
自分が直面している問題も書いてみれば何か見えるかもしれないと、郁生は鞄の中
の陸上日誌を漁った。
「あれ?」
取り出した陸上日誌を見て郁生は思わず声を上げた。
「やば……」
見れば、駿也の陸上日誌が一冊まだ鞄の中に残っていたのだ。慌てて鞄の中を覗き込めば
自分の日誌もちゃんとあり、莉子に駿也の日誌を渡し忘れたのだと知る。また明日渡せば
いいかと思って机の上に置いた。
「……」
郁生は机の上の日誌に目を遣り、自分の日誌を取り出す。今日の日付を開いて天気を記入
したところで手が止まった。
「……」
見てもいいものかわからなかったから何もせずに莉子に渡したのだ。自分なんかが駿也の
秘密を暴いていいわけがない。
そう思いながら、駿也の行方の手がかりになるかもしれないという思いと、駿也の秘密に
触れたいという誘惑に郁生の手は伸びた。
「手がかりを得るためだ」
郁生は正当化できる理由を自分に叩き込んでページをめくった。
日付は最近のもので、ペラペラめくってみたが、陸上のこと以外はほとんど書かれていない
ように思えた。
『6月7日
・午後から30度を越える快晴になる。
・左足の筋肉が痙る。気候の変化に筋肉がついていけていないのだろうか。
・塚杜のモチベーションをどうやってあげてやったらいいか悩む。故障から復活する辛さ
は孤独を感じるからだと、故障した人達はみんな言っている。塚杜の支えになる人がいれば
いいのだけれど』
胸が痛い。自分は駿也が思ってくれているほど、駿也のことを純粋な目で見てはいない。
憧れの後ろにはっきりと嫉妬が張り付いている。焦りや苦しみを駿也にぶつけた事はないが
きっと滲み出ていたに違いない。
けれど、駿也はそれを受け止めていてくれたのだ。郁生は唇を噛み締めながらベージを捲り
続けた。
『6月21日
・朝から雨
・昼から出掛ける。
・夕方には帰るが妻と喧嘩。
・最近、このパターンだ』
『7月5日
・快晴。うだるような暑さ。
・もう限界かもしれない。今のままでは全てがダメになってしまう。
どちらを選んでも、どちらかが不幸になる。選べないままならよかったのに』
『7月24日
・家族を守るためにすべきこと……』
日誌はそこで途切れていた。
愕然とする気持ちで郁生は再び日誌に目を落とす。
日誌のはじめは陸上のことしか書かれていなかったのに、6月後半からは陸上のことなど
ほぼ皆無で、それだけ駿也は追い詰められていたのかもしれない。駿也の心が蝕まれて
いたことに郁生は微塵も気づいていなかった。
名前こそ出てはないが、そこにあるのは若見瑛の存在。瑛の影がちらつく度、駿也の日誌
が苦しくなる。首を絞めていたのは瑛なのか、駿也自身なのか。
あってはならない関係を駿也はどうしたかったのだろう。
「家族を守る、か……」
駿也はどうやって家族を守ろうとしたのだろうか。その一言が水面を揺らす。波紋は円を
描きながら膨らんでいき、郁生の心をざわつかせた。
「何なんだろう」
郁生は何か忘れているような気がしたが、それがなんなのかわからないまま、波紋は漆黒
の闇の中に音もなく消えていった。
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