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楽園アンビバレンス


 6.優駿の足跡




「あの人…?」
聞きなおすと、莉子は我に返って口を押さえた。戸惑いと苦悩が滲み出る瞳を伏せ、首を
振って莉子は「ごめんなさい」と言った。
「駿也さんは……」
郁生の問いかけに莉子はしばらく無言を貫いたが、自分の吐いた言葉に諦めが付いたよう
で、ぐすっと鼻を啜ると郁生に向き合った。
「私よりも大切な人のところに行ってしまったんだと思います」
莉子は既に駿也の不倫に気づいていたのだ。その事実に郁生は自分まで責められている気
がして、キリキリと内蔵が痛みを告げた。
「やっぱり……」
そうだったのかと、郁生は無意識に言葉を発していた。駿也の不貞という事実はもはや
決定的だ。今まではぼんやりとした仮定でしかなかったことが、一気に、鮮明になって突き
つけられると、郁生の心に鈍い痛みがやって来た。
不倫という背徳行為への嫌悪、イメージを裏切られ、騙されていたことへ悔しさ、それで
もまだ先輩として支えになっている事実。尊敬の念が大きいほど失望も大きいのだと郁生
は実感した。
「立ち入ったことを聞いてしまってすみませんでした」
「……お恥ずかしいところお見せして、こちらこそごめんなさい」
独身の郁生にとって不倫の気持ちは理解できないし、勿論したいとも思わない。
あの駿也が不倫をする相手とはどんな人なのだろうと、郁生はぼんやりと相手を想像して
みたけれど、浮かんでくるのはグラビアアイドルのような女性ばかりで、どれも結びつけ
ることはできなかった。
「一つ、いいですか」
「……はい」
「駿也さんがその人のところにいるとして、連絡は付くのでしょうか。無断欠勤で監督も
心配してますので、できれば連絡取りたいのですけど」
「そうですよね。無断欠勤なんて……ご迷惑おかけして申し訳ありません。でも、主人の
携帯電話が繋がらないなら、他に連絡の手段ないんです」
「そうなんですか」
「主人は、私のことなんてどうでもいいと思ってますから。何も教えてくれませんし、私
も何も聞けません……」
重い一言だった。家族の亀裂の深さが郁生にも見える。何故こんな風になってしまったの
だろう。二年前は幸せを具現化したような家族だったのに。妻を労わり、娘を溺愛し、何
の不満も無い家族だと本人も言ってなかったか?
けれど、今の莉子を見ると、偶像だったのかもしれないとも思う。所詮他人なんて、その
人の一面しか見えないのだ。駿也が家族や郁生の前で完璧な好青年を演じてきたように、
莉子もよくできた妻を演じてきたのだろう。
そうやって上手く回っている家族だってたくさんある。自分の描いていた理想に当て嵌ら
なくなったからと言って、幻滅するのは勝手すぎるだろうか。郁生は自分の中で沸き起こる
失望に蓋をした。
「あの……」
「……」
「駿也さんと連絡取れたら、こちらにも連絡するようにお伝えください。本当に、駿也
さんが無断欠勤なんて今までなかったし、俺も監督もみんな心配してますので……」
「はい……」





ピンポン、ピンポン、ピンポン





郁生が切り上げようと腰を上げたところで、玄関のチャイムが激しく鳴り響いた。
「!?」
莉子と郁生は顔を見合わせる。莉子は立ち上がると、顔色を変えて玄関へと走っていった。
駿也かもしれないと郁生も莉子の後を追った。



「義姉さん!」
玄関のドアの先にいたのは、駿也ではなかった。
「泰輝(たいき)さん?どうしたの」
泰輝と呼ばれた男は駿也によく似た若い青年だった。泰輝は険しい顔をして、息を切らせ
ている。莉子のすぐ後ろにいる郁生を見つけると、益々顔を顰めた。
「……誰?」
「駿也さんの会社の方……こっちは、主人の弟です」
莉子が紹介すると、泰輝は不審な顔をしたまま軽く頭を下げた。顔つきはよく似ている
兄弟だと郁生は思った。
「どうも……兄さんの会社の人が何か?」
あらぬ疑いを掛けられたくなかった郁生は、口早に挨拶と経緯を話した。
「塚杜郁生です。駿也さんが無断欠勤したので、心配になって伺ったんです」
「!!……やっぱり、いないの?!」
泰輝は表情を強張らせて叫んだ。
「やっぱりって?泰輝さん、何か知ってるの!?」
「仕事から帰ってきたら、こんなのがポストに入ってて……」
泰輝は握りつぶしていた紙を広げて莉子に差し出した。しわくちゃの紙はノートの切れ端
のようで、右側にノートから乱暴に破りとった跡が見えた。
莉子は神妙な顔になってそれを広げると、瞬きもせず読んだ。
「……」
読み終えた莉子は固まったまま、視線だけが泰輝を追う。指の隙間から紙がはらりと落下
した。
「俺、これ読んで兄さんが……自殺でもするんじゃないかと思って……!」
「泰輝さん!!」
莉子はその言葉を頭の中では予測していたらしく、両耳を塞ぐとその場に崩れた。
「……見ても、いいですか」
郁生が尋ねると、泰輝はぶっきらぼうに頷いた。
「ああ…」
郁生は切れ端を拾う。目に飛び込んできたのは駿也の字には間違いなかったが、どこで書い
たのか、いつもの几帳面さが欠けていた。
読み進めようとすると急に心臓がドクドクと響き始める。緊張しているのだろうか。郁生
は迷いが爆発する前に一気に読みきった。



『泰輝へ
元気でやっているか?最近は顔を見せに来ないから、ちゃんとやっているか心配だ。
お前に会って、直接話をしなければいけないと思っていたけれど、不在だったから手紙を
書く事にする。でも、お前に合わせる顔がないというのが正直な気持ちで、しっかり罪を
償うまでお前に会うなっていう天の采配かもしれないな。
お前はもう気づいているだろうけれど、俺は、大きな過ちを犯してしまった。もっともして
はいけないことだ。家族を悲しませ、莉子を苦しめてしまった。
莉子は出来た女性で、今まで本当に俺の事をよく支えてくれていた。彼女を裏切った罪は
重い。俺は、こんな状況になってようやく気づいた大馬鹿者だ。
俺は罪を償わなくてはならない。家族に対しても、騙した全ての人にも。……お前にも。
長い贖罪の旅になりそうだ。
泰輝、そんなことは無いと思うけど、お前は間違えるなよ。あそこは楽園かもしれないけ
れど、誰も幸せにはなれないんだ。

これからは莉子と紗耶を、頼む』



手紙は突然に終わっていた。
漠然とした内容だった。大きな過ちとは、不倫のことなのだろうと推測がつくが、それ以外
はどうとでも取れそうな理解するのに苦しむものだった。けれど、当事者の泰輝と莉子が
この手紙を「遺書」のように捉えているのは、自分には知れない前提があるのかもしれない。
郁生はもう一度ゆっくりと手紙よ読み返した。
最後の一文が頭の中をぐるぐると回る。自分の妻子を頼むとはいうことは、自分が傍にいら
れないからなのだろうか。
傍にいられないとは、どういう事だ?
不倫相手の元に行くから頼む……この文面からしてそれは考えられないだろう。
だとしたら、残る選択肢は……贖罪の旅、それが意味するもの。
「死んで罪を償う……」
結局郁生もその結論に達してしまった。
「塚杜さん!!」
莉子は崩れ落ちたまま、頭を振って叫んだ。
「すみません……」
「でも、義姉さん、兄さんは今日、会社にも行ってなかったってことでしょ?あんな真面目
な兄さんが普段の生活をしてないとわかった以上、最悪の可能性も考えないといけないの
かもしれない……」
泰輝も俯いて拳を震わせた。
「あの人……!!……あの人のとこにいるのよ!」
莉子は大粒の涙を零しながら泰輝を見上げた。
「……あそこにはいない」
泰輝は首を振った。莉子の言う「あの人」を泰輝も知っているらしい。
「!!……見に行ったの……?」
「……いや。でも、例の知人から、あそこにはいないと……」
切れの悪い返事と泰輝の触れられたくない表情に、郁生は妙な違和感を持つ。話はよく
見えてこないが、不倫という単純な行為では片付かない関係が横たわっているようで、郁生
は薄ら寒さを感じた。
「じゃあ!駿也さんはどこに行ったっていうの!!」
「わからない……とにかく帰ってくることを祈るしか……」
うな垂れる二人に郁生は言った。
「祈ってるよりも、警察に連絡した方がいいんじゃないですか?」
「警察…!?そうよね……。そうした方がいいわ……」
「ちょっと待ってください。そんな大事にしたくない……大人の男が一日いないだけで
警察に連絡なんて」
血相変えて飛び込んできた筈なのに、警察の話をした途端、泰輝は及び腰になった。先程
最悪の事態を口にした人間と同じ思考には思えなかった。郁生は違和感より不信感の方が
大きくなる。ひょっとしてこの男は何かを知っているのではないか。
「じゃあ、こんなに連絡してるのに、なんで出ないの?何かあったんだわ」
「でも、警察行って大騒ぎしてるあいだに帰ってきたら、兄さんの立場が……」
渋る泰輝に郁生は思わず怒鳴っていた。
「体裁なんて気にしている場合ですか!?帰ってきたならそれでいいじゃないですか。
風邪や持病じゃないんだから、一日様子みてなんて暢気な事いってたら、後で取り返しの
つかないことになるかもしれませんよ?」
その言葉に莉子はよろよろと立ち上がった。
「そうね……。塚杜さんの言うとおりだわ……。あの人のところにいないなら、事故か何か
に巻き込まれたのかもしれないし」
莉子は「駿也があの人のところにいない」という事実に救われたようで、少しだけまとも
な思考回路が復活したらしい。
「泰輝さん、警察に連絡するの付いて来てくれる?」
「……いいけど」
「俺も一緒に行きましょうか?」
「ありがとうございます。義弟もついてきてくれるので、お気持ちだけで充分です」
郁生の言葉に、莉子は首を振った。不倫の話を聞かれただけで十分堪えたらしい。これ以上
身内の醜態を知られたくないのだろう。
郁生も素直に引き下がった。
「じゃあ、俺はこれで帰りますけど、何か分かったら連絡ください」
「はい」
莉子は頭を下げたが、泰輝には何故だか睨まれる様な視線を送られた。
余計なことを言ってしまったのかと気にはなったが、自分の判断は正しいと思いながら、
郁生は花里家を後にした。





郁生は車に乗り込むと、夜のバイパスを飛ばした。郁生の愛車、赤の「Z」は住宅街を肩身
の狭い思いをしてすり抜けると、思いっきり爆音を鳴らした。
夜風は生温く、郁生は窓を閉めるとエアコンに切り替える。90年代の洋楽をチョイスすると
無理やりテンションを上げた。
大会前やタイムアタックするときに、気分を上げるために聞いているお決まりのナンバーで、
派手なギターソロになると自然と駆け出したくなるように身体が覚えているはずなのだが、
今日に限っては耳障りだった。郁生は一曲聴き終わる前にボリュームを下げてしまった。
何かが少しずつ歪んでいる。駿也も莉子も泰輝もむき出しにしている感情とは裏腹に、内に
隠した感情が別の方向を見ているようで、それが余計に白々しく感じてしまう。
郁生はぶるっと身体を震わせた。真夏だというのに、薄ら寒い。これ以上関わらない方が
いいと本能が警告しているようだった。
バイパスを降り、信号で止まると携帯電話を確認した。着信が2件、母親と監督からだった。
母親からの電話はどうせたいしたことではないはずだ。郁生は監督へ折り返しの電話を
掛けた。
「……お疲れさまです、塚杜です」
「おお、どうだった?」
「それが……ちょっとやばい感じで……」
「やばい?」
「……ええ」
郁生はそれを言葉にするのが怖くて言いよどんだ。
「塚杜?」
「えっと……失踪っていうか、最悪……自殺というか……」
「はぁ!?」
電話口の監督も驚きを隠せないで、耳に刺さるような声を出した。
「とりあえず、警察に行くそうです」
「おいおい……大事になってきたな……大丈夫なのか、奥さんは」
「俺たちも探したほうがいいんですかね。……監督、駿也さんの実家とかご存知ですか」
電話越しに監督の大きな溜息が聞こえた。
「お前、知らなかったか」
「え?」
「あいつの実家は……あるけど……ないんだ」
「はい?」
「あいつ、施設育ちだ」
「そうなんですか!?」
「ああ……」
思わぬ駿也の過去に郁生は言葉を失った。何の不自由も無く、幸せに育ってきたと思って
いた。郁生の知っている駿也は、走る環境に恵まれ、幸せな家庭を築き上げ、羨望の眼差し
で見られている姿だけだ。
「あいつは、あれで、苦労人なんだ」
「そうだったんですか……」
「奥さんは何か言ってなかったか?」
「はい…奥さんにも駿也さんの弟さんにも会ったんですけど、心当たりはないそうで」
不倫の話は郁生の口からは言えなかった。電話口で監督は黙った。そして小さく唸った後
迷いながら言った。
「……お前、明日ちょっと行って見るか?駿也の施設」
「え?……あ、はい……」
「そうか。……どこだったかな。ちょっと待てよ」
ごそごそと電話口で資料を漁る音が鳴る。
「ああ、これだ。施設の名前は『あすたか園』って言うんだ。住所は……」
監督に言われ郁生は住所をメモした。
「分かりました。明日、ちょっと行ってみます」

カチリ、また一つ歯車が動き出す。90年代の洋楽がカーオーディオからかすかに流れていた。





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